ゲームが苦手、という話

馴れない人と会話するときはあんまりゲームの話したくないなって思ってて自分からは振らないようにしてるけど。

それでも話題に上ったりするときに、


「あー、私は全然そういうのダメです。ぜったい無理です」


というような拒絶を表される場合がわりと多いように感じてる。

そのへん別に不思議でも無いんだけど。でもそれが、なんか引っかかるような節もある。

ダメとか、無理って、なんだろな。うーん。

つまり、不可能の表明だ。

たとえば映画だったら「あんまり観ません」とか、マンガなら「読まない」、小説なら「読めません」とか…。あー、小説くらいになれば「読めない」という不可能の立場もあるのか。けどまあ、映画やコミックは嗜好として享受する・しないという選択判断の表明かな。あまり不可能という意識は無さそうな感じがする。

なんとなくこのごろ世の中的には、ゲームっていう物も映画のように広くエンターテインメントとして捉えられているのかなと思ってたけど、実際の消費者としてはものすごく「プレイする」「操作しなきゃいけない」っていう意識はあるということかなあ。

僕はもちろんプレイするものだという意識から入ってるけど(どんなクソゲーだって面白くプレイしてやる意識)、なんとなく昨今の世間の風潮として、労苦無く享受できるエンターテインメントの一つとして掲げられていて、そちらの意識から入ったときのギャップが強いのかな。楽しめる、と思ったのに、操作できなくて無理だと感じる。操作しなきゃいけないという事実に恐怖してしまう。享受する・しないじゃなくて、不可能という立場。

…というギャップ体験は別に昨今のことではないか。どちらかというとファミコンあたりのゲーム黎明期に享受に失敗した人の意識かなあ。で、最近になってエンターテインメントとしての整備が進められて、改めて享受を可能にするキャンペーンが展開されているのが目立つわけか。

僕は基本的にゲームが苦手です。
というより、下手といったほうが正確かもしれません。
実際下手です。

そのようなわけで、僕自身は自発的にゲームをすることはありえないのですが、家族がやっているところを観戦することは多多あります。

ゲームが下手なだけに、ぼくは他人のプレイを観戦するほうが好きです。
なんといってもお手軽に全能感に浸れますから。


それはどういうことかというと、ゲームの中のプレーヤーの動きがぼくのイメージとシンクロしたのです。
ああ、弾がきた!それよけろと思うと丁度よいところに移動し攻撃するときにはまさしくグッドタイミングで攻撃をしかける、次から次へと僕のイメージとシンクロするんです、まるで僕がコントローラーを思念で操作しているような感覚なんです。
ああ、そうかこれは僕の肉体はいうこときかないけれど直接コントローラーに念を送れば、意のごとくなるんだなあという「全能感」に浸った一時期がありました。

ゲームのエンターテインメントな部分って、要は管理できること・全能感というあたりかなあ。

苦手、不可能意識ってのは、率直に言えば「下手」と自覚する感情なのかな。どうだろう。「自発的にゲームをすることはありえない」と書かれているように強い拒絶意識が表されてる。けど、これはゲーム以外にもいろいろあるだろうな。下手と自覚したものを乗り越えるのは難しいし、実際わざわざ乗り越える必要も無く、下手と感じなかったものについて頑張っていけばいいのかな。うーん…。

あー、でもやっぱ、ゲームはエンターテインメントだと僕は信じてるのかな。用意された、享受できるものがあると。

ゲームが苦手と言う人に対して、「下手と感じるならやらなきゃいいじゃん」とか「ゲームはエンターテインメントだと思わないほうがいいんじゃない」とか、ついつい思ってしまうけど(それは「下手という意識」→「このゲームは面白くない」と安易に捉えられるよりは、プレイヤー自身の下手という問題に留めたいからか)。苦手だと言っている人も、僕自身も、なんかそれは釈然としない気がする。

苦手な人でも、その先にエンターテインメントがあることを少なからず期待していてのことだろうし、僕もまあそれを見過ごしづらい気持ちがあるのかな。その先の是非についてはまた別だけど、少なくとも体験できる場までは、ゲームについての議論ができる場までは引き上げてもいいんじゃないか、とか。


実際そこまで行くと、僕が語って説明するより実に雄弁に感じ取っていてくれたりするのはちょっとびっくりしたりする。え、この意味分かるんだ、そこ気づくんだ、って。逆に下手を乗り越えたところで、やっぱこの面白さは理解できないよ、となるとちょっと面倒だなとか思うけど。

そこまで来たらもう、「ここはこういう要素が…」「つまりこれの主題はこういうわけで…」「だからプレイヤーは駆り立てられる…」とかなんとか説明せざるをえなくて、ああそういう説明もいかがなものかと、押し付けてしまうのはアレだなあと、いう気もしてしまう。

つまり、ゲームはエンターテインしてくれるけど、それは各自の自主性あってこそのもので、そこがエンターテインメントであって表面的にはエンターテインメントでないということかなあ。いくらゲームの読み方を教えてもそれはあくまで僕の読み方で、プレイヤー自身の読み方を持たないと十分なフィードバックを返してくれないように感じてるのか。まあ少なくとも操作レベルでは苦手意識に正しく助言を与えられそうだけど、そこから先はめんどくさいということかなあ。

どうやったら面白く遊べるかって、それはプレイヤー自身が面白いと思うことをゲームに提示しないといけない、ってことか。入力あっての出力。体験メディア。プレイヤーによる嗜好提示があってこそゲームフィードバックは面白さを返してくれるのか。


そういう意味では、万人が面白いものを考えるのとは別に「プレイヤーとしてこういう動機で遊んだらこのように面白かった」という事例を書き記して行くことが、苦手なプレイヤーにとってのとっかかりになると意識してるのかな。いや、まあたぶん僕自身もそういうとっかかりを見つけないと苦手意識が強いんだろうな。