持続していく目的

  • たとえばゲーム中に供給されるリソースが尽きていくとしたらどうだろう。
  • 最初からそれを明かすのではなく、途中からそういう局面に気づかされる。
  • RPGやってたら、敵が出なくなって収入が無くなり、主人公も衰えていくとか。そうなってしまって、得てきた資産を解体してなんとか保とうとする。持続させる意義を考える。
  • RTSだとリソースの奪い合い→組織編成→征服で、資源が尽きることは前提だけど征服が達成されればいい。
  • Simsをゲーム的に用意されたアドベンチャー手続き(キャラを操作して働かせて賃金を得て生活)のみで進行させたとき、たとえばやがて不況になって収入を減らすことで、生計が立てづらくなるとか。家具を売り払って生活を持続させるがそれでも供給は途絶えたままだとか。
  • そうした状況での、ゲームプレイ感とはどうなるのか。
  • ゲームだとやっぱそこはゲームになっちゃうのかな。何日保つことができたか、を競うライフゲーム。あるいは、持続している間に征服などの目標達成してクリアする。
  • そうでなければやはり供給停止は一時的なもので、それを乗り切って次の成長という従来のゲーム的なメリハリ、「神の試練」というような設計になるのか。
  • ゲームのプレイ観は、そのどちらの人生観も自然に体得できてるのかなあ。永遠の成長の気持ち良さと、前提的に資源を意識した持続性のコントロール
    • どっちかっていうと、ゲームにとってリソースはもともとシビアか。原義的でハードなゲームほど成長よりはリソース管理の意識から成るか。
    • そういう意識は、いきなり遊びとして開発されたというよりは、学の延長として生まれてるのかな。
    • でも将棋とかは駒が「死なない」から、リソースを管理しててもそれ自体は減らない。そこが持続的なのか。
    • 経過に応じて減っていくかどうか。
    • あ。いや、でも、宇宙(世界)的には資源要素は減らないのか。その中で、あくまで変換されるだけなのか。
    • 「死ぬ」とはその扱う世界の外に、競技外に出されることか。
  • でも、そのへんプレイ的にときどき混同されちゃうのかな。あるいは設計的に混ぜて作ってるとか。
  • 「永遠の成長」ってのは輪廻転生を含めたどこかに到達する人生観か。「前提的に資源を意識した持続性のコントロール」というのは、一般的な一回性の人生観か。
  • ゲームプレイは限られた世界の管理を可能にするから、わりと地続きの持続性を持ってるのかなあ。
  • そこで一回性の人生観を持つほうが、プレイ観として実際的に「役に立つ」のかなあ。そこはまあエンターテインメントとは逆向きなのか。
  • あ、でも前提的に資源を明かすわけじゃないよな。世界の中の人間視点としてはそれはちょっと絶望的っていうか(生まれながらに「おまえの寿命はあと○○で、得られる資源は○○」と宣言されるような人生観)、それはプレイヤーとして、メタ操作者の視点だな。輪廻的な、魂からの視点というべきか。
  • 人は生まれて成長を期待して(エンターテインメント)、やがてそこに資源の限界を知る。そこで身に迫ってくるのか(学)。
  • んー、うまく記せないな。前提的に与えられた資源を持続させることを競うでなく、輪廻を重ねてどこか至上のクリアにたどり着くわけでもない、という設計を僕は求めてるのかな。それが人生にとって学になりそうだから?
  • 単に、「身に迫る」絶望を感じるゲームをやりたいのか、な。
  • そういう意識で設計したときに、それが成り立つのか。戦略的に見捨てられた部隊で、供給無く、勝利無く、ただ出来る限りの戦術を駆使していくゲームは、どっちかっていうと楽しめそうだ。身に迫る、とはどうだろうな。
  • 教育ゲームも、「教育を」「ゲームで」と意識したところからもう設計が成り立たない感じはしてるなあ。それはまた別の話か。

あー、もっと直接的に記してみよう。

http://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/shisaku/jco/tokaihib.htm

要は、東海村の被曝ドキュメンタリーを見たのがきっかけなんだけど。中性子を浴びることによって人体の設計図たる染色体が破壊された状況というのは、肉体組織を新たに作り出す新陳代謝不能になりリソース供給ができなくなる。つまり、生きながらに死んでいく。この状況をプレイするのは身に迫る。短絡的だけど、そこに縮図的な人生観を見られる気がする。

当たり前に信頼していて気づくことも無かった供給を意識するということ?