前向きな飽きやすさ。低い拘束力。

ゲームにおいて「飽きる」という言葉は死よりも強い印象さえあるように思う。
まあゲームの死=リトライ継続であるという構造的な意識から、相対的にプレイヤー主導で決定的な終わりを迎えるものが飽きとなるのかな。そのへんちょうど人間の人生における死と飽きとは逆の意味になっているのは一回性のものかそうでないかということだろうか。そしたら一回性ではなく強い輪廻主義を持つ人なら死を恐れず飽きこそを恐れるのか。いや…、逆にそれは悟りか。迷いの対極。まさに解脱。グッドエンドだ。仏教は迷いを減らす手続きゲームとして悟りというゴール求める? でもそれを達成したら、その後はどうなんだろう。そこは一つのステージに過ぎなくて、さらなる悟りのために終わり無く上昇して継続することが保証されているのかな。悟りプレイヤーのためのネクストステージ。おそらくそれは非悟りプレイヤーにとっては見えないから、結果として果てが無いとしてもやはり一つ一つの段階においては達成すれば上がりとなる究極目標が掲げられ、継続を断ち切らんとするのかな。

うーん、あー、そんなことを書きたいわけじゃなかった。いや仏教も良く知らないし勝手に自分的に噛み砕いちゃってるし。


もっと具体的な話から記述すると、改めて洋ゲーは飽きやすい、…のかな、という感触から。

まあ「大味っぽい」という印象は傍目にも一般的だろうし、飽きるというレッテルは強い意味を持つ言葉ゆえに「即ち駄作」という観念になりかねないけれど、しかしそこをもう少し慎重に捉え直してみると、飽きるということがひとつのポジティブなデザイン技法なのかなという気もしている。

洋ゲーと捉えているくらいだからどうしても和ゲーとの対比は意識させられるところだけど、実際和ゲーが持つ要素、秀でているもの、特に欧米のゲーム哲学の場には認知されづらいものというのは近年それなりに話題になっていそうだけど、それって実際なんだろう?

職人的な作り? まあよく言われるところだけど、それって実は単に制作人数・規模が少ないということかもなということも思う。洋ゲーはそこに対してさらにふんだんなリソースを投下していくことで、良く言えばとにかくリッチに仕上げ、悪く言えば味のこだわりをぼかすという感触なのかな。職人技が主題とされるかどうかを別にすれば、和ゲーにしかない要素ということは無く、見えにくくなっているだけで洋ゲーにも確かにあるように思う。

じゃあ、発想? それもまあ『塊魂』を引き合いに出してよく言われてそうだけど、しかし和ゲーだからというよりはあくまで1本のゲームタイトルとしての評価に寄っている感じかな。あんまり洋ゲー和ゲーの話としてはピンと来ない気もする。

…という意識が前提にあった上での今回の感触。飽きやすさ/飽きにくさ、という要素。

和ゲーの哲学は飽きにくさの追求にあるのかな。うーん、どうだろう。

そして洋ゲーが飽きやすさを積極的に許容する。なんかそう捉えると、受け手となる和洋プレイヤーのプレイスタイルにおいてしっくりくるような気もする。

具体的に洋プレイヤーのプレイスタイルを意識したのは、『Battle Field 1942』という二次大戦FPSで対戦をしていたとき(毎日10時間くらいプレイしていた)。プレイヤー名とPING値(ネットワークの近さ)から推測しただけに過ぎないし、ゲーム以前にある程度の偏見も強いのだけれど、自分を含めて日本人プレイヤーは真面目な動きをするなあという印象があった。

何度も何度も、ヘッドショットを決めて、的確にグレネードを転がし、偏執的に、ただ真面目に倒す。そうやって6畳間の部屋に1人で篭もって戦ってる自分が居て、ネットワークの向こうの欧米のプレイヤーはいったいどんな部屋でどう戦ってるんだろうなということは時々考えたりした。これもまた偏見と憶測にしか過ぎないけれど、まあおそらくは広い部屋で開放的に、ポテチでも食いながら、バカだねーこいつと友人とディスプレイを指差したりして、ガハハーと戦ったりしてるんじゃないかなあという想像をした。うーん、想像だけで書くとホントに陳腐なイメージしか出ないのでほとんど価値が無いのだけれど、要はまあ自分がやられても相手を倒してもガハハーと楽しんでるんじゃないかなあということが言いたかった。

で、それってなんだろな。プレイヤーの観点で、別にゲームに飽きてもいいよという構え。許容力の高さかなあ。和プレイヤーほど偏執的でないというか。無さそうって言うか。

プレイヤーとしての自分自身の感触で言えば、「飽きることを非常に恐れている」という意識が強いなと思う。これが和プレイヤーとして自然に出たものか、あるいは和ゲーの哲学が飽きへの恐れ・飢餓意識を主題として作られてきたのか。しかしここ何年か洋PCゲーを中心にプレイしていると、わりと飢餓感からは解放されているような気がする。ゲームがはじめからリッチだ。

おそらく和ゲーの持つ性質というのは、強烈に飢えを煽り、的確に充足させるというあたりになるんじゃないだろうか。この手法は非常に優れているし、洗練されて手際も良い。そしてなにより制作側としても常識となっているように思う。洋ゲーに比して和ゲーが強い部分は特に「飢えを用意する」ことだろうか。そのへんが欧米哲学的にはあまり無いんじゃないかというように感じられる。

しかし、なんだ。じゃあそれを誇ればいいのか、っていうと、うーん、自分としてはあんまりこのへんをもう絶賛できなくなっている。なんというか、ゲームに飢えさせてもらわなきゃ自分で飢えることもできないのかというか。用意された飢えを満たすのは確かに充足感はあるけれど、それはあんまり自分自身の飢えじゃない。だれか他人の飢えだ。

飢えを迫らないという意味でのリッチなゲームは、飢えは自分で見つけ出すこと、自分自身の飢えを見つけること、そういうプレイを主題にしているように思う。それは実際豊かな国が作るゲームだからだろうか。


ああそうだ、この話のそもそも肝要な具体的体験を書く。

先日、久しぶりに『Sims2』をやった。面白かった。でもちょっと飽きそうだった。まあそれも当然で、あとでライブカメラのログを見たら20時間連続で微動だにせずプレイしてた。そのあとそのまま仕事に行った。いつから寝てないのかちょっと分からなかった。

Sims2では最高で40時間連続プレイしてたけど、そのときに僕が言ったのは「ゲームやってると疲れない」という言葉だったようだ。肉体的には確かにまあ座ってるだけだからそんなに負担になってないんだろうけど、なにより心や意識が駆り立てるものがすごいと思う。日常において自主的に駆り立てるのが難しいために、そうした精神作用が何なのか、というのが自分にとってはゲームに対する大きな根源的な興味になってる。

Simsは表面的にはキャラクターの飢えが視覚化されて、それを充足させていくゲームだ。それをポチポチと絶え間なく満たしていく。満たすそばからまた飢える。満たしつづける。だからついつい長時間プレイになりがちだ。辞め時が見つからない。

そうしたルーチンで連続性を保ちながらも、ゲームの大きな方向付けはそこではないように思う。特に「飢えは満たしてもまたすぐ飢えるもの」という諦めがある。満たして終わり、じゃない。しかし満たさなければいけない。そうしたサイクルの中で、だんだんと、自分自身の中にある飢えに目が行くような気がする。自分が何に飢えているのか、どうやったら満たせるのか、ということがサイクルに誘発されて駆り立てられるし、「どうやったら」の部分は非常になんでもできる。ゲームキャラの飢えを満たすのは簡単だけど、プレイヤーの飢えを満たすために必要なものへの意識が高い。パッケージとして実にリッチな用意をしているし、そして最終的には自作となる。そしてユーザーメイドのパーツを受け入れやすいように作ってある。

自分の中に飢えを見つけ出して解消する。解消したら終了。そのへんが前向きな飽きやすさだろうか。

つまり、飽きは「プレイ途上でクリア放棄」というネガティブなイメージが強いけど、そも途上やゴールという明確な区別が無いとすれば、プレイヤーが満たされて飽きて解脱することが望ましいことではないか。それを許容できるかどうか。飢えを作り出してクリアへの志向を強くデザインするゲームでは拘束力が高く、自分としてはそこにネガティブな印象を感じるんだろうか。

(※飽きる、クリアする、飢える、リッチ。このへんの定義が曖昧だ。ゲーム内的には「クリア=飽き=リッチ←→飢え」ということかな。)

うーん、ちょっと書ききれないな…。拘束力の話も全然書けてないし。

ああ、投了アクションという話もあった。んー、まとまらない。


以下、関連して書きたいこと。また後日改めて。

  • 続編モノという作りに対する和洋の意識の差。和では萎えるけど、洋ではまだ確かにワクワクできること。
  • GTASAをクリアしたこと。下手な映画よりエンドロールが長いこと。