2006年ゲームプレイ記録まとめ(その1)

年末も締めくくらなければいけないような雰囲気になってきたのでちょっと意識して振り返ってみる。
なにしろ今年驚いたのは住居の契約更新のとき「ああここに住んで2年経ったのか」と思ったら実際は4年目(2年前にも契約更新してた)だったということ。なんか2年分くらい記憶が適当というか曖昧というかこれはまずいという気持ちが非常に高まったので、一所懸命生きてみたい。

それはともかく、とりあえずゲームについて振り返ってみるとわりといろいろある。2年思い出せないくせに、記録してあることを見返してみるとわりと1年長かった。年明けにはまだhatenaにも書いてなかった。

2005年

2006年の前に、去年まではどうだったのか。なんかいろいろ考えが移ろうので、もしかしたら半年前ですら正反対の姿勢だったりするかもしれない。まあ、けどまあどういう経緯を経てきたかが肝心で、どっち向いてるかはあまり問題じゃない、と思いたい。

えー、と。

ざっくり言うと、ゲームに対してプレイヤーの意識、プレイがどーの、みたいな言説かなあ。どっちかといえば楽しめないのはプレイヤーに責任がある、みたいな。うーん、それも、そうなんだけど、それ言っちゃうと…、いや今でも言っちゃうけど、どうも、危ういような、そんな気が、するよ、2006年。

龍が如く』(PS2) プレイ期間:1ヶ月(40時間くらい?)


年末年始にやってたのはこれかな。思えばコンソール機のゲームはほとんどやってなくて、なんにしろロード時間がきつくて死んだ。いったんパッドを握る覚悟を持ってゲーム機に臨んじゃうと、マウスやキーボードと違って手が離せないからPCよりも体感時間が長いのかなあ。

しかし、改めて画を見ると、実際プレイしたときよりも非常に面白そうに見えてきた。静止画映えするというか、プレイする主体には手応え的に見えづらくて観客の方にこそ見応えがあったというか。後述するGTAのバーチャル感とは作りが反対なのかもしれない。ロードや日本的なコリジョンが、アクションゲームという前提の上ではどうにも受け付けづらかったのかなあ。

むしろ日本的なアドベンチャーとして割り切って、キャバクラセットを使ったMODとか作れたらいろいろ盛り上がれそうな気はする。大人のときめきメモリアルというか、キャバクラツクールという感じで。なんにしろ現実的なお金を注ぎ込むのは面白い。

讃岐うどんはなまるうどん セルフうどん体験』(Web)

http://d.hatena.ne.jp/miyaoka/20060416/1145187097

現実的なお金のゲーム感覚ということで、ゲームじゃないけど入れてみる。まあなんだろな、これがメジャーに面白いと言える感覚なのか分からないけど、個人的にはすごく好きだ。はなまるうどんで一万も使うバカらしさ、というのは、直接的に訴えてもあまりピンとこないし、派手にアピールするほど醒めるけど、一連の流れタスクを消化した後に気取らずに提示されるとなんかじわっときいてくるくだらなさだ。これは非常にバーチャル的な視野拡大の好例なのではないかと思う。

『Crashday』(PC Demo) プレイ期間:2,3日(5,6時間)


車で、機銃とミサイル、ドリフトテクニックを使って、戦闘機感溢れる、ドッグファイト

結構楽しかったなー。

『REFUZE: Home, Sweep Home』(PC Demo) プレイ期間:2,3日(5,6時間)


おもちゃの視点で大戦争

結構楽しかったなー。

『Wild Earth』(PC Demo) プレイ期間:2,3日(5,6時間)


プレイ結果がHTMLの新聞になって吐き出される。

比較でプレイしたポケモンスナップが面白かったなー。

Grand Theft Auto: San Andreas』(PC) プレイ期間:1年(300時間くらい?)


90年代のカリフォルニア州ロサンゼルス・サンフランシスコ、ラスベガスを舞台にしたGTA3シリーズの3作目。2005年からプレイし始めて1年くらい遊んでた。GTAシリーズは魅力と大味さをいい感じに併せ持っていて、自分の場合いつもゆったり長々としたプレイになる。飽きちゃってもいいし、別にクリアしなくてもいいか、という制限のゆるさかな(なんだかんだで全部クリアはしてる)。

そんなわけでGTA漬けだったもので春頃にサンフランシスコに行ったときには「あーここ知ってる」「っていうか来たことあるよ」「この作り、そうなんだよねー」とか言ってたら「宮岡くんはGTAの話しかしてない」とウザがられた。

いやしかし、ホントなんかモデル的理解が得られたわけでこういうゲームはいいもんだと思った。

前作までは都市部だけを描いていたのに対し、SAでは数倍に広くなったマップによって都市と郊外が再現されてた。といってもTest Driveみたいにオアフ島まるごと再現みたいなレベルじゃ全然無くて、それに比べたら狭いんだけど、GTAシリーズの中では都市と郊外、そしてそれを繋ぐfreewayという概念を初めて体験できるようになっていた。

そうして実物を見てきてから改めてGTAをプレイしたらそれはずいぶんショボイもので、えーこんなに狭かったの? こんなんで満足してたの? という感覚を抱いた。

GTAについては基本的に「楽しむために土地勘をつける」というゲームだと思っているので、落としどころとしてはあくまで貧しい資源をベースに、何度も繰り返しに耐えうる作り(マップを使い捨てにしないで使いまわす、使い倒す)になっているというのは改めて意識する。いやもちろんGTA=広大じゃないか!という意識の方が先にあるんだけど、ただ広大なんじゃなくてディティールの切り捨て方が上手いと思う。やはり世界が全部あっても認識できるのはごくわずかということでの効率良い提供の仕方、いいとこどりの周到なジオラマなんだなあという感触がある。そういう資源感覚ってものこそがいわゆる「ゲーム」と言ったときのゲームらしさ、かもしれない。詰め加減、記号化かな。

そういったバーチャル喚起というか、ゲームによって自分の想像がなにか魔法がかってプレイしていたんだなあと思った。バーチャルは奥行きを引き伸ばす魔法だ。今の時代こそバーチャル、バーチャル!

Call of Duty 2』(PC) プレイ期間:1ヶ月(40時間くらい)

大好き二次大戦ゲー。

夏ごろにグラボを新調して手をつけた個人的ハイデフ体験第一弾。

とはいっても、なんかいまいちだったなー…。まあもちろんグラフィックは良かったけど、続編モノということでやはり初代とは違う部分が大きく意識されてしまった。一番違うのはライフとセーブの扱いだろう。

  • 「ライフゲージ(の表示)無し、ライフ回復アイテム無し。ほっとけば自動回復、数発集中的に浴びると死ぬ」という昨今のFPS/TPSではトレンドのデザインになった。
  • これに加えてプレイヤーによるクイックセーブができなくなって自動セーブだけになった。

これらが導いたことって結局、ステージの刻みを細かくしてその1個1個のレベルを「クリアできますか?」と問うようなミニゲーム感を強くしたと思う。これは他のゲームでは上手く機能するのもあるだろうけど、戦場ゲーというモチーフでは小さな目標を達成して一息ついて安心、なんてものよりも、生き残り目指して突き進む長回し感を味わいたかった。

長回しで面白い」という感覚というのは、例を挙げると映画『ポセイドンアドベンチャー』をモチーフにした群像ゲーム『セプテントリオン』が分かりやすいと思う。あそこでは「船が沈むから1時間以内に脱出せよ」というひとつの大目標が与えられ、プレイヤーはそれを意識して自分の好きなルートを考えて組み立てていく。システム的に途中セーブやサブ目標の達成確定などは無く、「脱出する」という大目標が達せられなければ、それまでのサブ目標も評価されないようになっている。そうした感覚が、プレイヤーはあくまで大目標のためにさまざまな局面をこなしているのだ、という反ミニゲーム的なカタルシスの強い体験に導きやすかった。

つまりまあCoD2では、戦場全体を考えることがあまり無かった。その場その場のミニ目標に対処するプレイになりがちで、達成→確定、達成→確定でいつのまにか作戦が終わってる。もちろんあくまで「感覚がそうなりやすい」というだけで、意識的に戦場全体を考えて行動するのはプレイヤー次第なんだけれど、そうやって行動してもどうにもプレイとゲームの食い合わせが悪かった。

CoD1だったら、途中のレベル設計が細かく区切られていないために、「序盤でなるべくノーダメージ、武器残してラストに突入」というような長いスパンの自由な組み立てができたのだけれど、CoD2はそうした序盤で貯金というような行動があまり役に立たないようになっている。「セーブは自動セーブのみ」という設計から分かるように、再開地点からはクリア不能な状況にはならないように作られてる。つまり貯金を使わないとクリアできないようなハードなシチュエーションは無いと言ってもよく、そこから先に進む手段はその場その場に用意されている。

そうしているのはつまり手詰まり防止だ。たとえば、序盤で拾ったバズーカを終盤まで残して戦車に当てる、なんてことを期待したレベルの場合、途中でバズーカを持ってこなかったプレイヤーはクリアできない。CoD1ではヘルスゲージ制でプレイヤーの任意セーブだったために確かに下手なところでセーブしてしまうと体力も武器も無くてクリアが至難になりやすかった。だからCoD2は、それに対する直接的な改善策という印象はある。けど、うーん、下手うてば詰まる、くらいのものだからこそ達成感が快かったんだよなあ。

じゃあ難度上げればいいじゃん、って話だけど、それもCoD2ではいまいちというか、非常にマゾくて厳しかった。1個1個のミニゲームが難しくなるってのはなんか辛いばっかりで、CoD1で面白かったのは、いくら全体の難度が高くても「たまたま上手くいった場合の局面」でセーブして、そこから何度もアタックすることで前進するという、「スーパープレイを繋いで生き延びる」感覚が非常に戦場体験的にマッチしてた。戦場で生き残るってのはやはりスーパープレイが何度も起こってるわけだ。

実際、CoD1で迫撃砲がわんさか降ってくるMODをプレイしたときは本当に面白くて、10回中9回くらいはスタート直後に死ぬくらいなんだけど、その理不尽さこそがたまたま上手く切り抜けたスーパープレイを価値あるものにさせ「運すらも自分の戦場経験によるものなのだ!」と妄想的にフィードバックされてくれるあたりが脳汁溢れてしまう

これがCoD2の「難度の高いミニゲームをこなしていく感覚」とはどう違うかというと、、、うーん、なんだろな。似てるんだけど違うんだよな。ああ、小さな目標設定がゲームから与えられるか、プレイヤーが作るか、の違いか。要は、自由度? みたいな話かもしれないけど、自由度という言葉的には逆にCoDはむしろガッチガチのスクリプトゲームだ。でもそれだからこそ、支配感・万能感が強くセーブポイントまで制御できたCoD1は、自分の好きなような戦場体験を作りやすかった。

そんなわけでゲームとして与えるレベルは全体的なものでよく、要所要所はプレイヤーの自己満足的な目標設定になるのが良い、んじゃないかというまとめ。

Medal of Honor: Pacific Assault』(PC) プレイ期間:1ヶ月(40時間くらい)

CoDシリーズの元というか先発の二次大戦FPS

MoHがFPS的な一人大暴れのいわゆるランボープレイな設計だったのに対し、CoDがなりきり分隊行動をフィーチャーしたタイトルとして発表され、そしてMoH:PAでも分隊行動が取り入れられた。ということで、やや古めのタイトルながらおさらい的にプレイした。

意外に、意外というか面白かった。

今の時代からではやはりグラフィックは一段劣るし、ウリのひとつであった物理エンジンもこの時点では挙動が怪しくて兵士の死体がブンブン回ったりとか全体的に成熟度がアバウトだけど、戦闘自体は他タイトルとはまた違った作りになっていて良かった。

まず、相手が太平洋戦線の日本兵なので、ヨーロッパ戦線でお決まりの「ドイツ軍のMG42の前に釘付けにされてウヒャーとなる」なんて体験は無く、かわりに銃剣構えて「突撃ーィ!」してくる。これがなかなか戦闘として面白くて、戦闘フィールドも主にジャングルの中ということで建物に篭って戦うことは少なく、お互い発見次第距離を詰め合っての乱戦模様になる。敵を迎え撃っていたら、いつのまにか背後に回られていた、なんて体験は独特な感じ。だいたい、正面の敵を倒して、倒して、進むというのが当たり前だったわけで、お互いの戦線が入り乱れるなんてことはCoDでは無かった。

PAもまあ一本道に真っ直ぐ進んでは行くのだけれど、戦闘するのはジャングル内の円形に少し開けた場所になっていて、それは言ってみればスポーツのリングのようなものになっている。ジャングルはrogueで言う「通路」と「部屋」みたいな感じに構成されており、開けた部屋での戦闘は360度に気を配る必要があり、日本兵のバンザイアタックは二次大戦FPS的には非常にアクション感が高く、打ち合いの最中ドキッとさせられる。

あと分隊行動に関しては前進・後退・援護射撃・射撃停止と簡単な指示が出せる。これもまあそれなりに良かった。まあそんなにガチにコマンド使い分けしていくような作りのゲームでは無い感じだけど、自分がスナイプしたり突っ込んだりするときに任意のタイミングで援護射撃を頼める点は嬉しい。コマンド使い分けが厳密だとそちらで疲れちゃうというか別のゲームになっちゃうそうなわけで、まあそのへんは未成熟というかアバウトなゆえに気軽で、だけどちゃんと指示に応えてくれるところに嬉しさがある。実用的な頼もしさじゃなくてなにより雰囲気的な嬉しさ。カバリングファイアー言いながら突撃したいというわけ。カバリングボタン。

しかしまあ、戦場は華が無く、半分くらいは変わり映えしないジャングルをえんえん歩く。リアルといえばリアル。嫌気さすムードの中、日本兵の襲撃に怯える。序盤がパールハーバーでの派手な戦いだっただけに、中盤のジャングルはなかなか厳しい。けど戦闘が面白いのはジャングルなんだけど。あとグラフィックや挙動がやはり今やるときついという感触が強いのでなんとも評価が微妙かも。

カルチョビット』(GBA) プレイ期間:4ヶ月(100時間くらい)

面白かった。ダビスタ薗部氏のサッカー観戦ゲーム。

プレイしてた頃は、車内や町中でいつもやってた。入力タスクと出力フィードバックが大きく分かれていて、ひととおり入力を済ませたらあとは見るだけのゲームだから徒歩中にもできるのが非常にジャストなニーズだった。DSはなんだかんだでデカいので外ではプレイする気にならないけど、これはGBAということでミクロでの片手操作プレイが公式に推奨されているというなかなか珍しい特徴を持つ。自分の場合ミクロでなくGBASPだったけど、ポケットに入るしそれなりに小型なのでいつでもどこでも片手で持って眺めながら歩くのは快適だった。

これはぜひログをつけながらやるべきゲームだと思ったので、別日記に専用のログを書きながらプレイしてた。

途中で止まってるけど、もうクリアはしてる。クリアしちゃってからはログ書くのサボってしまったけど、どうにか年内くらいにはまとめたい。

で、ログ書きながらのプレイはなかなか面白く、けどわりと負担の高いものでもあって、プレイしたいときに「あー前回までのログ書いてないから進められない」とかいう状況もあったりしたので、クリア後の二周目になったらいちいちログをつけずに徹底的に好きなだけやりこもうという気持ちを一周目のプレイ時にわりと抱いてた。

でも一周終えていざセカンドプレイに臨んでみると、正直あんまり長続きしなくて…。ああ、これがクリアするということか、みたいな。わりとクリアが至上でない、曖昧なゲームプレイばっかりしてたから、なんかこう、引導を渡されたというか。いや、まあカルチョビット自体のクリアは優勝したらエンドロールが出るってだけでその後もいくらでも続けられる、どちらかというとクリアの無い作りになってるんだけど。カルチョビットの場合、優勝後も続ければ楽しいまま続くけど、ステータスは上がっていく一方だからプレイヤスキル的に得るものは乏しく、わりとジリ貧になってしまう。だからまあ優勝=エンドときっぱり割り切る気持ちが強かった。そういう意味ではしっかりエンドのあるゲームと言える。楽しい時間は続けられるけど、そこにはもう得るものは無い。そうした感覚が、引導渡されたという印象かなあ。

ダビスタだと、やっていけば育つというわけじゃなくて毎回が賭けだからどこが到達点かは曖昧でそうした気持ちとは違う。しかしまあカルチョビットにはホントに異論は全然無くて、この設計、この寿命、GBAのゲーム、と納得のいくものだった。