物理は正義
- 「アクションゲームってのは物理、すなわち重力だ」とかつてOさんに説かれた。
- 『スーパーマリオブラザーズ』のジャンプについてのメモ
- そろそろ「電線(仮)」を語ろうか
- ドキドキするね。なんでだろう。
- 別宇宙の法則を定義できる。体験する。そこがゲームメディアが(わりと容易に)できる可能性ではないか。
- 我々の世界フレームを客観認識する視点を持つためには、いったん別宇宙に立つ必要があるのではないか
- 地球と月の重力のように係数が異なる、ということじゃなくて法則そのものが違う体験。
- しかしそれは認識できないのかもしれない。
- 理不尽と感じるのかもしれない。そりゃそうだ。道理が違う。
- しかし、違う道理を理不尽と思わない場合とは。
- その道理が優先されて認識されるのはどういう場合だろう。
- それが初めての道理である場合。触れている時間が長い場合。コミュニティがそれを支持している場合…。
- 違う道理が適用されると、社会的に問題になる。我々のフレームを脅かす。
- 社会としての問題とは?
- ゲームが「ゲームならでは」として危うい部分は、倫理、と言うよりは道理を比較的揺るがしやすいことではないか。
- 倫理は物理・道理の前提の上に立つと僕は思っている。
- たとえば重力一つ変わるだけで、建築が全て成り立たなくなるのではないか。そこに住む僕らのルールは満ち溢れる可能性を限定した上で成り立っている感触。
- ゲームはそういうことを認識しやすい。意識しやすい。
- 社会の合理、正義とは、まだただ物理としか言い様がないのではないか。
- 人間の身体に対して比較的、不変であること。
- この世界のフレーム外まで目を向けた道理の可能性があったとして、そこで複数の道理が立ち現れたとき、何を拠りどころとするべきか。(道理が道理たるのはそれが唯一という前提?)
- 「無理が通れば道理が引っ込む」
- (この世界の)物理は正義、という前提。
- 別宇宙は大人になってから。と言いたくなる。
- ゲームの年齢制限
- デザインレイヤーで違う道理ではなく、メタデザインレイヤーで違う道理。
- 違う道理の可能性は好きだし、それをきっと僕は求めてる。が。
- これだけ世にゲームがあると、設計が狂ったゲームはざらにある。
- 多くはたぶん意図せずにそうなってる。正しい設計が何か、と至れることは難しいし、認識していてもそのように実装できないかもしれない。
- あるいはそれがその人の世界認識かもしれない。
- 違う人が捉えたこの宇宙ですら別宇宙だ。
- けど、その可能性の道理が、特にあるべくしてあるわけではないのかもしれない。可能性が(おそらくは)明らかに価値に繋がらないこともある。
- そのへん他メディアに比べて、吟味されきっていないのではないか。
- ゲームのネガティブアンダーグラウンド感。