ゲームと遊び

…というタイトルだと文脈的にGame(Ludus)とPlay(Paidea)の話っぽいけど。んー、いや、そうじゃなくて。

遊び。

今回考えたいのは、looseness(緩み)やallowance(許容)という機械的な意味での遊び。
んー、結局それはPlayと繋がってるのかな。別物なのかな。どうだろう。
まあ結果として同じだとしても、まずはそうした「遊び」という言葉が「Play」とは違うニュアンスを持っているように感じたので、なんかそのへん思うところを書いとこう。

  • 遊びを与える、とは、デザイナーがプレイヤーを許容する?
  • 「許容できるのだろうか?」→自分には難しい
  • どうして難しい?→それじゃあゲームじゃないという気持ち。あ、いや…、「ゲームじゃない」ってのは自分の捉え得る枠組みから排他するつもり、では無いつもりだけど…。そう思うのは、機構として捉えどころの無い、曖昧になりすぎるという不安。アートになってしまうんだろうか。→「楽しければいいんですよ」と言われると困ってしまう。楽しさに理由が欲しい?? アートは楽しさに理由が要らないのだろうか。それが不安なのか。
  • 岩井俊雄氏あたりがちょうどボーダーラインかなあ。アートに自覚的で、許容が強そう。そうしたアプローチのほうが何かゲーム・遊びに迫るのか?
  • 許容のレベルにも拠る話か。デザイナーが用意した許容、ではなく、プレイヤーが自ら創り出す許容、ぐらいのレベルだと容認が難しい。ここが遊び場ですよ、すっごくエキサイティングな遊具がありますよ、と用意したのに、あっさり敷地を出て道路でジャンケンしちゃうとか。
  • パッケージだけ見て、中身をやらずに勝手に小説書き始めるとか。それは遊びを提供したことになるのか?(…という疑問は無駄っぽいので考えたくないな)
  • それでプレイヤーが楽しめてるからいいじゃん論になると、アートの領域なのかなあ。自分的には、そこは分けて考えたい? それともゲームは遊びだ、プレイだ、となんでも広く寛容できたほうがいい?
  • 超未来的な考えをすればアリと仮定するくらいの心を持ちたい。しかし自分には抵抗がありすぎる。
  • そのへんの切り分けがLudusとPaideaになる? うーん、どうだろう。あんま分かってないかも。


…うー、あーやばいやばい。あんま良くない流れっぽい。無し無し。曖昧すぎる。
ゲームは遊びを与えるという前提だから辻褄がおかしいのか。ゲーム、と、遊び、と分けて捉えているんだし。
ゲームは遊びのサブセット、というところでの、許容を基盤にしながらも縛りがある、というのがゲームかなあ。

  • デザイン=制御≠遊び、許容?
  • デザイナーの「遊び心」、プレイヤー主導の「遊び心」
  • プレイヤー視点→Play、デザイナー視点→遊び(許容)という捉え方?
  • デザイナーとの直接的な対話交渉であれば許容可能。後付け。
  • 交渉の余地の無いルール(コンパイルされたルール)としてのコンピューターゲーム、においての許容とは?
  • 真剣な遊び
  • 真剣←→遊び