『The Elder Scrolls IV: Oblivion』プレイ始め雑感

グラボ新調した。

ということでなかなか手の出せなかったハイエンドなタイトルを今更ながらいくつかやっている。

The Elder Scrolls IV: Oblivion(オブリヴィオン)』というシングルプレイRPG

シングルプレイRPGとMOD

マルチプレイRPGはろくにやってないけど、シングルプレイRPGのほうはプレイに対しての取り組み方が多分だいぶ違うんじゃないかと思う。特にコンソール版では無くPC版だから、いきなりもう、

  • MOD(プラグイン)を入れる
  • プレイしてバランスを見る

の繰り返し。

傍から見て、どうも延々とテストプレイしているような感じなんじゃないかと思うけど、しかし、RPGをプレイするというのはどういうことなのか考えさせられる。させられる、かも?

いや別に何と言うか。旧来的なRPGの良い点、悪い点、というのは人によって既に果たした充足度・これから追い求めたいモノ、というのが違うと思うので、古典コンピュータゲーム的な成長機構そのものを楽しむ人も居るだろうし、それをどのくらい楽しみたいかというのもあるし、もう少しメタな自然な暮らしの中でのひっそりした成長を求めたいというのもあるはず。まあ特にこのジャンル自体の構造は枯れていて何をやれるかについてプレイヤーが理解しているので、その中で何を選び取ってやりたいかが主題になってくる感じかなあ。

それでもいきなりMODというのは、シェフの料理を一口食べる前から持参のコショウを振るようなもんだけど、しかしこのMODを選ぶワクワク感はずいぶん楽しい。果たしてプレイする時間とフォーラムを眺めている時間のどっちが多いか。実際プレイに至らなくてもあれこれイメージ描いているだけで満足していたりする(『Sims2』のときはこれが顕著だった)。

箱庭世界がどうありたいか、そのお膳立てを自分で取り仕切る。食事に来てるんだけど、厨房奪って勝手に料理してるような感じか。そしてそれが歓迎されている。ゲーム中の難易度変更なんかは標準で用意されていたりするし。

ファストトラベルとハイラル平原64

Oblivionの土地はリニアに地続きで広大で、馬に乗ってもずいぶんと移動に時間がかかる。まあその道中が楽しいんだけど、マップを開いて町をクリックすることでこの過程を省略してワープする「fast travel(ファストトラベル)」という機能が標準でついてる。

このへんの運用感には、ちょっと『ゼルダ』のことが頭にもたげてくる。まあゼルダ的な何かは今の時代からはずいぶん比較しやすい対象になってしまっていると思うし、3Dゼルダは8年近くも前だから今更それにケチをつけるというのは一方的な話だけど。とにかくまあ、あのハイラル平原の絶望的な往復感を省略できる、という感覚が思い起こされる。

ゼルダの場合、そのへんの時間稼ぎはシステムと密接に絡んでいると思うので、省略できたところで出来上がるのは何か別のものになってしまうと思うけど。Oblivionでは省略できることが前提で、しかしプレイヤーの気分次第で省略せずに、ひたすら道を往く。このへんを自主的にやっているのがすごいなとプレイしながら感じていて、徒歩か馬かという手段的な近似もあることで、ああこれはまるでハイラル平原じゃないか、ハイラル平原が本当に伝えたかったものってこういうことなのか、と思い直すことが多い(タクトの海原も同様)。

あれだけうんざりしたでんぐり返しハイラル強行軍、おそらくはそれに近い形のものを、自分で積極的に再現しようとしている。このへん単純に、取り巻く景色の解像感の違い、ということでやっぱり映像が綺麗だから間が持つんだろうっていうのはもちろんあるけど、じゃあゼルダOblivion並の解像感になったらと考えてみると、それでもやはり疑念はぬぐえない。

ゼルダ伝統のデザインとして湧き上がってくる、おつかい・時間稼ぎ・一本道・義務感・ドミノ倒し、その他もろもろの形容詞が亡霊のように取り付いてくる。あの広き平原に。しかし、そうした縛りが無かったらやはりゼルダではないし、だから平原が自由を求めれば求めるほど、ゼルダ的束縛とコリジョンを起こしてしまって、どうにも呪われているようにしか思えない。

Oblivionにはそうした呪縛が無い。スキップしても良いし、歩いても良い。そのファストトラベル機能自体を実現することはおそらく容易いことだけど、それでちゃんと成立するかどうかってのは、提示するゲーム自体がずいぶんと違うんだなと思う。

そのへん一言で表してしまえば、自由、Free、か。けれどFreeの負うリスクは相当なもので、それが成り立つかどうかはプレイヤーの働きかけによると思う。Freeの選択判断。モチベーションを作り出したり維持したりする管理の一切がプレイヤーに委ねられる。ゲームは管理してくれない。

だからOblivionOblivionで、最初に少し絶望感を抱いたりもした。その障壁はまあ言語が英語だからということが大きいけれど、それでも飛ばさずに時間をかけて読解し始めたら、世界に対して興味が出てきた。プレイヤーから提示される興味があってこそ、受け止めるFreeは立ち現れると思う。

あと、ゲームとはそも束縛だろうという根底的な認識を持っていて、結局それに対しての相対的なFree度であって、Freeそのものではないはずという心構えかなあ。束縛への感謝というか。