確信的な勝手

ggg展示

  • 常頃、先生が言っていた「全くそれは、本当にどうしようもなく勝手ですよ!」というような台詞。それはたぶん、他人の活動や先生自身の心の動きに対してなにかしらの「勝手さ」を発見したときの、驚きや、悔しさや、そしてなにより嬉しさの発露であって、ともかくある種の「勝手」というのは即ち絶賛の言葉なんだなあという認識を僕は抱いていた。
  • というわけでの今回の「勝手に広告」展。まあ勝手自体が主体の展示ではないだろうからもちろんそこは暴力的なまでの勝手さには満ち溢れてはいなかったけど。昨日、今日と、なんとなく勝手という言葉に惹かれてあの場を反芻していたら、いろんなキーフレーズとして勝手という言葉が位置づけられてきた。
  • 特に、生業としてきた広告に「勝手」がつくのは、傍から見ててもずいぶん心地良い気がする。もちろんこれまでの作品自体も自身で勝手と評するくらいのものだったから、そういう平行的な目で見ると今回のはむしろぜんぜんファインで、アートとして見たら振り回す勝手さは薄いのだろうけど。そんな直接的なところじゃなくて、なにより活動自体が勝手というのが、既存の倦怠感漂う広告活動に対してとても勇気があって開拓的でそういうのが個人的には嬉しく楽しめるものだったように感じた。

2004/09/09の手記より

「海の底のことを超能力で透視して、獲物がきたら、その時ハイって声を掛ける。そしてテグスを持つ役は、すぐに、パッと上にあげるようにする。もし、本当に超能力があれば、魚が刺さって獲れる」
聞いていた長生と高弘は、もう、すぐやりたくなった。
3人は、水をぽとぽとさせている空の釣り針を見て、「いまのは惜しかった」とか「もうちょっと前だったらベラが通ったのに」と勝手なことを言い合った。

「勝手」という一文。久しく触れていなかったメッセージを改めて認識しました。

単純で明快な「ルール」に自身を制御させながら、その一方ででたらめで捉えどころの無い「勝手」なものへの強い憧れを抱いている。それを行使することは超能力に等しい。そう思えました。しらず、涙が湧いていました。

Iさんにそんなことを話したら「勝手って、curiosity-drivenってこと? mission-orientedじゃなくて」とか言われました。うーん?

curiosity-drivenという話は改めてなるほどという気もする。けど、mission-orientedとの対比ということではやっぱり違うのかな。うーん。あと「でたらめ」という言葉は勝手文脈の中では非常にポジティブ感が高い。勝手≒でたらめ、か。

高弘は末の弟を誘ってこっそり電気小屋に行ってみた。
「あれ? おかしいな」
今日はすこしも面白くない。やり方がちがうんじゃないかと、いろいろためしてみたがやはりだめだった。
洋次が、何かの拍子にひらめいた遊びは、いつも仲間をとりこにした。
しかし、どうしてかその新しい遊びは、洋次が一緒でないと面白くないのであった。

同じ遊びでも、洋次が居ないと成り立たない。要するにこれは、パクリに対する批判ですね。こっそりアイデアを盗んでも、結局は使いこなせない。使いこなせない「はずであるべきだ」。そういう主張だと思いました。

むしろ自分のものとして使いこなせればそれは新しい勝手ということかな。

ゲームと勝手

  • 常頃感じていた、ゲームの豊かさと貧しさ。どういうゲームが豊かなのかと言えば、自由度だの新しさだの分かりやすさだのと様々に挙げられる要因はあったけれど、それらが豊かさや貧しさを説明できるかといえばどうにも不十分に思えていた。
  • 豊かさだの貧しさだのそんな価値付け自体もひとつの僕個人の認識に過ぎないけれど。ただ、それを説明できる言葉として「勝手」というのはずいぶんとしっくりくるんじゃないかと思った。
  • つまりゲームがデザイナーの勝手(な思い込み、確信)に拠って作られているかどうか。プレイヤーとして「それはどうしようもなく勝手だ!」と驚きに満ちた声をあげて嬉しがるような(デザインが悪ければ怒るような)モノを提示され、認識・理解するというあたりが、豊かな行為なのではないかと思う。
    • たぶんまあそれは本読み的なシングルプレイの付き合いでマルチプレイはまた別物なんだけど。囲碁や将棋、麻雀のようなゲームとしての深淵に対して、作られた勝手の上で(それらは実際は対人戦だが)自身と向き合うのが確実で堅実な豊かさになってくると思っている。
  • 慣例的なルールを無視する、ということが勝手だろうか。それはただ単に「アンチ慣例」ということではなくて、慣例が存在しないかのように振舞うようなこと。そう言うと、本当にただ盲目的に慣例を知らないで作ったものがたまたま勝手になるということもあるだろうけれど。多くの確信的に発揮される勝手というのは、現状に満ちている慣例を知った上で敢えてそれを無視できる強度をもった考え、というのがポジティブな意味での「勝手」として現れるのだと思う。
  • このへんおそらく強度をもたずに慣例を外してただ「新しい」と謳うのは貧しいだろうし、成功した勝手をなぞるというのでは慣例を作りそれに従っていくといったファイン化であって、現状の倦怠感として漂っているのはそのように感じるものが多いのではないかと思う。
  • なによりゲームは、もっと勝手でいい。でも勝手は盲目では成り立たない。