ブラックボックスさえあればいい

オレの前にひれ伏せ女ども
下半身さえあればいい

というDMCのフレーズになんとなく感化されたりして、そこまでプリミティブに考えたときにゲームに立ち現れてくるもの、求めるものはなんだろうとぼんやり考えてた。

僕が重視しているのは、理解への(本能的な)志向がエキサイトを引き起こす、というようなものであって、そこに必要になってくる繰り返し学習機構がたぶんブラックボックスだ。だからブラックボックスさえあればいい。

…とは思ったものの、あらためて辞書を確認してみたらちょっとイメージとずれていた。というか、考えていたところとはわりと正反対だった。

  • 電気回路や機械、生物的な系などについて、その内部構造は問題にせずに、その機能、あるいは、それに対する入力と出力の関係だけが考察の対象とされるような過程、あるいは、その装置。
  • 俗に、使い方だけわかっていて、動作原理のわからない装置のこと。

これを図にすると、まあこういうわけで、ここから導かれるのは「input+output」の事象をプレイヤーが観測してblaxk boxを導き出すというもの。これでエキサイトするかというと、まあ確かにしていたんだけど。20年前にはゲームってほんとに良く分かんないものだったから、なんにしろ好奇の対象になっていた。でもそのblack化されていたコードはデザイナーからプレイヤーの側にだんだん露出され理解され、そして多くのパターンが網羅されている(そしてその成立するパターンもわりと限られている)のが現状だと思う。

だから入力したらもう結果が分かっているし、画面写真やムービーなどの出力を見るだけで、どんな入力ができるのかも推測できてしまう。もちろん細かいところではまだまだ驚きや発見はあるけれど、大枠としてはブラックボックスの持っていた神秘はずいぶん薄くなっているんじゃないだろうか。


で、今の僕がエキサイトするなあと感じているのは、ブラックボックスがオープンになっていて、書き換え可能であるもの。これは要するにMODといったものだけど、ブラックボックスさんと手を取り合ってアウトプットを協議するのはずいぶんエキサイティングだと感じている。まあそれはつまりデザイナーの仕事の域に入っているわけだけど、プレイヤーがそちらに移行するのはなかなか効率がいいんじゃないかという気がしている。アウトプットはなによりの御馳走だから。美食家として人生を楽しむんだったら食べるだけじゃなくて料理もしないとそうした域には到達できないんじゃないかと思うし、理解というエキサイティングな働きを突き詰めていくと、作ることが一番の理解ということになってくる感じだろうか。

そこまでプレイヤーに踏み込まれたらデザイナーの役割というのは薄くなってしまうわけだけど、実際こういうプレイの中でゲームに一番恩恵を感じているのはデザインではなくて、そのリソースかもしれない。

ゲームが巨大化してなにか非効率的に感じてきている気持ちって、パッケージ内のリソースの豊富さじゃないだろうか。形状データがある、サウンドがある、テクスチャがある、スクリプトがある。じゃあこれとそれを組み合わせたら…、という働きは刺激的だし、MODコミュニティでもそのへんは思わず唸らされるアイディアに日々満ち溢れている。活力に満ちている。さっき効率的であると書いたのは、プレイヤーは組み合わせだけ行うデザイナーになれるというところ。やっぱり一から何かを創るというのは辛くて苦しくてだから偉大なわけだけど、作られたものを自分向けに応用するのは理解のプロセスとして一番働きが強いと感じているし、繰り返し学習の意義があるところだと思う。