IDA-10さんとの対話。+アルファ。

アメリカ行ってIDA-10さんとちょっとだけゲームについて会話してきた。いろいろ語りきれなかったし、語る前提として思っていることもいろいろあるので、そのへんとりあえず序列つけずに並列で書いてみる。

  • 日本的なものづくり、アメリカ的なものづくり。
  • 民族の違い? DNAレベル?
  • 育てゲー好みと対戦好み→農耕文化と狩猟文化。
  • それはよく言う分かりやすい話、だけど。分かりやすいだけに、だけどな、とも思う。
  • 洋ゲーの「対人志向」という、プレイヤーさじ加減に委ねるアバウトさ。プレイヤーが面白くしてくれる。
  • FF12をプレイして、「『初めてのおつかい』はもうできないよ」的な感想表現をどこかで読んで随分としっくりきた。(FF12問題についてはまた別記するつもり)
  • 予定されたルート。商店街に話をつけてカメラも配置してあるような。わき道に逸れたら慰めに5ルピー与えてくれて、元の道に帰りなさいと言う、そんな感覚。
  • 対してGTAは最初からミッション無視して好きなだけ飽きるまで車乗り回して探索できる。「土地勘をつける」のが(後にプレイヤーが楽しんでいくために)目的となるゲーム。初めてのおつかいは、忠実な「任務遂行」が目的。と言えば分かりやすいか。分かりやすくまとまりすぎか?
  • 作り手が「プレイヤーを信頼するか、どうか?」のスタンスとか
  • 対戦志向。スポーツというゲーム。と言えば、そこには観客という要素が大きい。
  • ゲームプレイも観客型になるか?
  • 「指と頭を動かしてプレイしている人がお金を払っている」という常識がいずれ常識ではなくなる感覚
  • とはいえゲームセンターという空間や、スタープレイヤーという像に留まらない可能性。留めたくない気持ち
  • たとえば、ネットラジオ、というか、Webサイト? いや、いや、そうではないな。そういう感覚ならネットの人の方がもっと鋭敏だ。
  • ウィル・ライトの言うWikiPedia型ゲームモデル。MODの先?
  • つまり「プレイヤーのプレイ発信型、観戦型でありながら、唯一のパーソナリティが居ない」ということが特徴的か?人格よりも先にまずコンテンツがくる。
  • アメリカで話題のシリアスゲーム。教育ゲーム。
  • タンカーの重油漏れ事故にヒーローを動かして対処するが、どうやってもクリアできない。とりかえしがつかないことの教育。
  • 月面ロケット打ち上げシミュレーション。普通にシビア。大人がちゃんと解説する前提。
  • シリアスゲーム脳トレは違う文脈だとは思うけれど、意識したいのはエンターテインメント以上のお題目があること。合理的であること。
  • ゲームがネガティブでアンダーグラウンドの色濃いのは純エンターテインメントだからじゃないか。
  • 小説なら教養が、スポーツなら健康が、パチンコならお金が、アートならセンスが、まあ漠然と抽象的であるけれどその先に何かを得ようという意識が強い。
  • ゲームはそうした意識はあまり持たれず、実現もされなかったんじゃないか。
  • マーケティングの世界に、特徴と得られる恩恵を把握しろという伝統的な考え方がある。たとえば、新しい髪形について考える。特徴は、格好のいいカットで、得られる恩恵は最高のガールフレンドだ。」(http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20030728202.html)
  • 食事における、味と栄養、の栄養の部分。
  • シリアスゲームだとすごく栄養価高い。味は分からないけど。
  • 自分の個人的な食事観で考えると、食事はわりとネガティブで楽しいものではあまりなく、栄養摂取の義務的な行為であって、味というのは「それを平らげるのに飽きない」だけあれば十分。そういう役目と思ってる。オーバーキルな美味はたぶん他の人と比べてあまり求めていない。
  • とすれば自分のゲーム設計スタンスも「最低限飽きない」という理念が強そう。
  • 逆に少しでも飽きるようならダメだ、というところにこだわりが強そう。美味いものを求めるより、飽きることを非常に恐れている。
  • 「現象」が「社会」に結びついたら爆発的に消費される。
  • ゲームの栄養って毒から薬までたぶんいろいろある。それが社会的に言語化されて認知されると、ああそんな栄養があったんだと食いつきやすい。ワインのポリフェノールとかさ。みのもんたあるある大辞典
  • 口コミ。
  • どんな解説よりも、「知りあいの人が使ってる」は強い。
  • 広告に商品と関係ない人、特にスポーツ選手を使う理由。
  • スポーツの健全性、信頼性。信頼のおける人がおすすめするのだから大丈夫、というのは安易ではあるけれどやっぱり安心してしまう。それ以上考える必要が無い。合理的。
  • 僕も昔はそれで、知人の面白い女の子がお奨めするゲームを「○○さんが言うのだから絶対面白い!」と(振り返ってみれば)良く考えずに購入し、なんだこりゃと思った経験。信頼の崩壊。
  • 特にゲームの場合、女子と男子ではプレイ感覚に違いがありそう。(ダイナミックなパズルではないDr.Marioとかえんえんやってるような)
  • 「どこが面白いの?」→「単純なところ」→「単純じゃ面白くないじゃん!」という男の子的(DQN的)魂。
  • DQN心と男の子心。男子ならきっと誰でも元来持っている感覚。複雑なヤンキー漢字、翼の付いた車パーツ、剣と甲冑。カッコイイ魂。
  • 特定コミュニティには、それが「1つだけ」あればいい。
  • それが平均以上なら、満足する。それ以上を求める必要が無い。
  • パソコンに詳しくない中年は、とにかく家族・親戚・知り合いの誰かが持ってる物と同じにしたい気持ちが強いと思う。パソコンという機械や、中年という世代に限らず、良く分からないものに手を出すには誰かがそれを使って享受しているものの具体的なイメージが必要。
  • 自分に趣味嗜好選択意思など実は無いこと
  • 合理的な判断閾値があること
  • そこまで行くと脳科学か?
  • せめてゲームに関しては抵抗活動的に安易に判断せず深慮しよう
  • 面白いと言うこと。
  • それが面白いと認知されていない(と思っている)から、自分で声を出して「これは面白いですよ」と言う。
  • ワリオの森』と『パネポン』はかつてどちらも隠れた名作だったと思うけれど、パネポンは「隠れた名作」という看板を掲げながらいつの間にかメジャーの位置に居る。どっちも面白いけど、どちらに対して面白いと言うかとなるとワリオの森になってしまう。マイナーゲームだから面白いと体感するというよりは、マイナーだから面白いと言いたくなる、言う必要がある、言うことによる満足度が高い。
  • 面白いと体感するものと、面白いと言うものの違い。
  • 他人に伝わるのは「面白い」と言っているものだけで、面白いと体感しているだけのものは実は伝わってない。
  • 面白いことの体感は、対外性を問わない。公平だ。物言わず深慮しよう。
  • ゲームというのは、特にコンピュータゲームらしさというべきは、その歴史的にスポーツなどに対比すれば「対戦者を必要としなくなった」、「一人で遊べるようになった」というところが最終的に拠り所になるアイデンティティじゃないだろうか
  • 最近の、コミュニケーション志向は、まあどうだろう。
  • 特にMMORPGでは「会員みんなが利益を得られる」経済を作ることがサービスとしての大前提。これがやっぱり足かせとして大きいように思う。
  • 不当に一人がランボーにはなれない。
  • たとえば『大航海時代オンライン』とか構想的にすごく夢いっぱいで楽しそうだけど、MMORPGって時点でもうどうにもならなそうに思えてしまう。
  • やっぱ1番に発見するのが楽しいわけだよね。でも別にガチで1万人の中で頑張って1番になんなくていいなと思う。けど1番になりたい。特に大航海時代という世界なら、1番に大陸発見しないと意味無い。1番 or Dieのバランス。
  • そういうのってすごくMMORPGだと絶望してしまう。もったいない。
  • やれることはコミュニケーション。
  • コミュニケーションのプラットフォームとしてのゲーム、というのではあまり相性が良く無いのではないか?
  • エロゲーが昔はあくまでゲーム+エロというゲームの延長(ドラクエ1で竜を倒してローラ姫抱えて宿屋に泊まったら本気でベッドシーン、的なカタルシス)だったのに、エロのプラットフォームとしてゲームを扱うのはゲームプロダクション的なノウハウが無いために難しくなって、やがてゲームとして出来が悪いくらいならゲーム部分要らない、という風潮になっているんだろうと感じている。