“Rule-Breaking as a Game Design Practice” 自分ルールアドバンス、デザイナープレイヤー

  • 思いつくままにメモを続けてみて、だんだんと、僕が考えるべき「現状の、これから10年くらい先まで戦って(検討して)いけるような」ゲームに対する主題というのが見えてきたような感がある。
  • 一番大きいのは、デザイナーとプレイヤーの在り方で、彼らの立場を分け隔てているルールというものについて。それを壊す・可変なものにすることについて。
  • ルールを構築するのがデザイナー、それを享受するのがプレイヤー。という図式。
  • そうした一方的な授受関係においてはエンターテインメントか
  • しかしゲームというのは純粋なエンターテインメントでは無いんじゃないだろうか。という感触
  • プレイヤーがルールを構築できるのではないか。
  • なんで?
  • できたほうがよりエキサイティングだから。駆り立てられるから。
  • なぜできるか?
  • プレイヤーのゲームに対するリテラシーが上がったこと。どう体験すれば(少なくとも既存の物に対してそれを自分にとってより良く)面白くできるか分かるようになったこと。あとはまあコンピューター環境など。
  • そのへんはゲームに限らないんだけど、ゲームならでは、という感じもする。
  • ラノベ書き志望がラノベを読む、とか? でもそういう意識だと純粋構築者の側にまわらなきゃいけないような感じ。2次創作作品の満足度は高いけど、そういうのはプレイヤー意識を持った構築者の手によるものか。
  • 構築者意識をもったプレイヤーとしての満足が実現できるのがゲームメディアかな
  • たとえばコミックの場合、構築者(漫画家)意識をもったプレイヤー(読者)として2次創作したのが「コマを切り貼りするコラージュ、引用」というのが適切か。プレイヤー意識のある構築者になると、2次的な内容を自分で描くことで「作品」とするのだろうか。
  • ゲームの場合、コラージュ、引用的なレベルでプレイヤーがやれる余地というのがずいぶんと広いのではないか。僕はそこにプレイヤーとして手付かずの価値・魅力を見出しているのかもしれない。パラメータをいくつか変えるだけでそのプレイヤーにとってフィットしたエキサイティングなゲームになるかもしれない。そしてそれを作品としない。作品とするのが目的じゃない。プレイヤーがプレイヤー自身のために取り組む行為。
  • ああそうか。ゲームプレイヤーは「読者」と違って「プレイヤー」なのだからどう振舞ってもいいのか。それが構築者でも。
  • という意識はコンピューター以前には当たり前にあったのかも。
  • プログラム故に厳格なルールを必須・不動のものとするこのコンピューター時代に、ゲームプレイヤーがプレイヤーとして復権していくことこそが僕の考える主題なのか。

21 Breaking the Rules (21章 ルール破壊)

これらの軸からプレーヤーは次の5つに分類できる。

  • 標準プレーヤー(Standard Players):ルールを守って、ルールの権威を尊重する。
  • ひたむきプレーヤー(Dedicated Players):標準プレーヤーに近いが、ゲームをマスターしよう、ゲームで勝てる方法を探究しよう、とする。
  • 非スポーツマン的プレーヤー(Unsportsmanlike Players):ルールは守るが、lusory attitude を持たないようなプレーヤー。
  • Cheat:勝つためにルールを破るプレーヤー。
  • Spoil-Sport:魔法の円を台無しにするプレーヤー。勝つとかルールに従うとかまったく関係ない。

プレーヤーは常に法を遵守するわけではない。よって、デザイナーは決してプレーヤーの振る舞いを当然としてはならず、プレーヤーにはひたむきな者や非スポーツマン的な者がいるということを常に前提としていなければならない。

Bernard Dekoven は次のように提唱している。

  • ゲームを変えるという目的で変えず、機能するゲームを見つけるために変える。
  • 一度ゲームを変えたい訳と方法が確立すると、我々は権威を持つようになる。
  • すると、製作者であろうとプレーヤーであろうと、必要ならゲームの改変ができるようになる。外部からの誰にも許しを必要とせずに、自分たちが遊びたいように変える事ができる。
  • この自由は他のゲーム以上のもので、この自由によりプレイコミュニティが成長する。しかし、ゲームを変える自由はコミュニティに与える力である。

一度ルールをコントロールできると考えると、プレーヤーは、ゲームプレイからルールを壊して修正をできる。ルールの権威をいたずらに崩壊させず、深いプレイの経験から作る事を意図した方向を探ろうとする。
ゲームデザイナーがこのタイプのプレーヤーであると考えられる。つまり、DeKoven はプレーヤーにもっとゲームデザイナー的になれ、と言っているのだ。

  • いろいろ考えていたこと、狙っていたことが、Bernard Dekoven氏の言説にまとめられていたのでクリップ。
  • ルール破りというのが何故エキサイティングか。駆り立てられること。
  • バイクを盗んで走り出す、とかじゃなくて。とかでもいいけど。
  • ゲームを与えられたプレイヤーは、それをどう遊んだら楽しいのか分からない。だからプレイヤーはルールに従う。
  • しかしどう遊べば楽しいのか分かったプレイヤーは、ルールに従う必要が無い。
  • ただしそれは単なる反抗のカタルシスではないだろう。
  • 思慮深いプレイヤーは、デザイナーのデザインを尊重した上で「ルールの権威をいたずらに崩壊させず、深いプレイの経験から作る事を意図した方向を探ろうとする」
  • なぜ尊重するか。それが面白いものとしてデザインされたから。デザイナーを信じているから。
  • たとえば十分に調理された食事にお好みでコショウを振るようなもの? いや持参した調味料で食べること? または好きなときに好きな場所で好きな姿勢で食べることかも。
  • デザインできるプレイヤーを許容すること。
  • ルールとは、ゲーム内のプレイ指針か。
  • 社会ではそれは倫理なのか。道徳、モラル。あるいはもっと狭い、限定されたコミュニティでのスタンスか。
  • デザイナー‐プレイヤーの相互信頼感(一方的な授受関係にならないこと)という具合では、レディーメードとカスタムメードのようなもの? ちがうか? 客の注文に応える。んー?
  • いや違うな。おそらく対話を必要としないんだろう。カスタムオーダーするのはもちろん客だけど、それを制作するのも客なのだ。そうして制作されることを前提としてデザイナーはサービスする、か?
  • チートはアルゴリズムを破壊するが、ルール破壊では無いかもしれない。
  • チートを使って、「デザインされたルールの上での勝敗」を競う。その手続きのアルゴリズムに変更を加えるだけであって、勝敗のルールに関しては提示されているものに則っている。縛られている。
  • たとえばKill数を2倍にするとか。結果としての数値をいじるとか。
  • それはルールの定めた勝敗に対して真面目すぎるのかもしれない。
  • ホイジンガはcheater がいてもまだゲームは成立するとしている。cheater はルールを破るが、それは「勝つため」なので、ゲーム自体を破壊してしまうことがない。
  • cheater は実はひたむきプレーヤーの次のステップである。cheater はあまりにも勝ちたいという気が強いため、罪を犯してしまう。すべてのcheat の振る舞いにはルールやゴールや魔法の円に関係した、あるものを共有している。
  • あ、そのへんも書いてあった。
  • そういう意識は対人戦だからか? 顔突き合わせてのオフラインゲームならやりづらいし、そんな勝敗にこだわることは(金でもかかってないと)意味がないけれど、オンラインの対人戦では勝敗のみが明確なコミュニケーションだから生真面目なチートが発生するのか。
  • まあシングルプレイでもデザインに疑問を持ったらチートするだろうけど。買って来たばかりのシングルプレイRPGを単純にレベル100にしてスタートしよう、というプレイヤーはリテラシー的にあまり居ないと思う。(2周目プレイとかではアリだけど)
  • それが対人だと、人より優位に立つことが意識としてまず駆り立てられるために、ゲームデザインよりも強力なのか。優越感ゲームか。あるいは対人用だとゲームデザインが弱いのか、信頼が低いのか。対人コミュニケーションとは強いな。やっかいだ。

コンピュータゲーム以前のルールについて。後付けルールの作成ルール。

  • ゲームがコンピュータ化されてからは、バグや不具合は数あれど、「ルールを記述し切る」というところはコンピュータープログラムを駆動させるために必須になっている。のだろうということを改めて考えてみる。
  • コンピュータで駆動させない場合はどうなるか? 「定義されていない状況」が起こりうる。


「じゃあボールの外はナニ? なんなの!?」

  • こういうのはまさに定義外なんだけど、この判定をコンピューターに落とし込む時点で
    • 「ストライクのときはAという処理でそれ以外はB」としていればBになるし、
    • 逆に「ボールのときBでそれ以外ならA」と記述してればAになるし、
    • 「ストライクならA、ボールならB」としていればノーカウントでスルー(で予想外の振る舞いを見せるかもしれない)だろうし、
  • だからコンピューター的には別に例外とか定義されてないとかじゃなくて、プログラムが駆動しているという事はあらかじめそういう仕様で記述されているということ。
  • で、コンピューターを使わない場合。これは本当に定義外だろう。プログラムのフローとして行き場所が無い。予め全てのルールを記述しきれない、スクリプト化できていないのがコンピュータゲーム以前のルールなのではないか。
  • そこは人間同士で交渉をする。「こういう前例があるから〜」、「こっちのほうが倫理的だから〜」。後付けでルールを作って行く。改めていく。

TRPGだと、その場で定義できちゃうんです。たとえば落とし穴を作るとして、成功判定はこうで、ダメージはこう、と」

  • このへんの、後付け交渉でルールを記述、というあたりはコンピュータゲームに組み込めないだろうか? プレイヤーが構築者として振舞う。
  • 大富豪の「縛り」とかはちょっと近いのかな。どうだろう。プレイ中にルール改変・コントロールが発生するためのルールを作るという事。
  • カルネージハート』みたいにロボットとしてアルゴリズムまで作りこむのではなくて、もっと簡単にカード的にルール記述していくようなゲームとかイメージできないかな
  • 「3の倍数、で、20以下、は、攻撃力、2倍!」みたいな
  • あれー、ガンビット? いやいや…
  • 醍醐味は交渉しつつ、定義の一部を壊していくところだろうな。自分のルールでも、敵のルールでも。
  • 「ルールブレイク!」パキーン!「な、なにぃ〜」「数値反転」「前例適用!」「革命」「ぎゃー」
  • なんだそりゃ。
  • いやーやっぱ大富豪あたりは近い感じかなあ。

方法論を築き上げること、それを適用すること

  • たとえばクイズ(特にドリル)番組というのは主に適用する快楽、だろうか
  • 技術・能力の向上を目的としての練習・訓練の意味ではpracticeがもっとも一般的. スポーツや演奏などに使うことが多い.
  • trainingは団体として, 特にスポーツ関係での場合.
  • exerciseは学習の場合も含め, 一般的に用いる語.
  • drillは反復練習という点を強調.

オランダ語drillen. 原義は「穴をあける」. △NOSTRIL]

  • 既に保有している知識を使うこと。それ以上の学習を求めるものではないこと。「知っている=適用する」ということ。考えるのではなく、思い出すこと。
  • 考えるようなクイズは制作側にコストがかかる。視聴者も考えるのにはコストがかかる。
  • 解答者は賞金などがあればそれはモチベーションになるが、そうしたモチベーションがあってはじめてコストをかけて考えることができる。か?

[中フランス語←ラテン語costre (con-対して+stre立つ=金額に相当する→費用がかかる)]

  • コストが低いためドリル的なものは生産しやすい。が、その知識を保有しているかどうかに依存するためにGoalとしての勝敗意識は希薄。か?
  • なんで?
  • むかしの王様は知識を保有しているだけで強者だった?しかし今や保有者が強者という意識は薄いのではないか
  • 情報は紙に記録され引き出し可能になったからか? それをハンドリング・組み合わせて進化させる能力で優劣がつくようになったということ。コンピューターの登場で、人間の意義・役割が明確に保有者ではなく行使者となったこと。
  • ゲーム的な快楽は何か。方法論の構築にあるのではないか。という予測、予感。
  • それは適用するために構築し、適用時に快楽として還元されるのだろうか?
  • 適用のための構築。あるいは、構築・適用それぞれで独立した快楽だろうか?
  • 構築→適用であれば、その場で各人がゼロの状態から競うことができる。その平等性が、自分がプレイする必然性へと駆り立てるのだろうか。

自分ルールについて

  • FFTAで失敗してしまったのは何故か。何を失敗したのか。

今回入れた新しいシステムの中に「ジャッジメントシステム」というものがありますね。正直に言いますと、練り込みがちょっと足りなかったです。‥‥反省点はいっぱいありますね。

  • 自分ルールは自分で宣言する。自分に最適である。
  • ルールを考え出すところの面白さ。駆け引き。与えられるものではない。
  • そして自分で破壊することができる。最高のカタルシスはルール自体の破壊。か? 少年漫画的メソッド。
  • 「破壊可能なルール」という位置での自分ルール。
  • 厳格、ストイック < 破壊のカタルシス
  • 破壊のための遵守。破壊せずともその枠に切迫すること。
  • ルールを破壊できる「やむをえない例外」すらも自分ルールで定義すれば問題ない。
  • 以下憶測。
  • 自分ルールの発祥は? ityouさんのところだろうか?

ゲームのルールって、もともと自分でつくるものなんですよ。
「5人タクティクスオウガ」は、自分ルールというものを定義してタクティクスオウガを遊んだ記録です。それはまた、自分ルールはおもしろいぞ、みんなも自分ルールで遊ぼう、というふうに触れ回るページでもあります。でもそれはべつに私が考え出したものではなくて、みなが昔からやっていることなのです。

君もぜひ『そのルールの内側で全力を尽くしてプレイすると面白くなる』絶妙のルールを探し、それに従ってプレイしてみてくれたまえ。

  • タクティクスオウガ以降、ityouさんのコラムでネット的に自分ルールが囁かれたのではないか。メジャーになったのではないか。僕はそれによって自分ルールを明確に意識した。
  • 「ネットではこういう遊び方されてる」というのが松野氏に伝わって、FFTAに取り入れようとしたのではないか。けれど適用するほどの満足な理解には達していなかったのではないか。単なるマゾヒスティックな縛りのデザインだと誤解したのではないか?