「でもテトリスとかああいうの、消えるから気持ちいいんじゃないかなー」

2004/01/28の手記よりクリップ

開発中の麻雀ゲームをしばらくプレイしてた。そしたらなんかああ麻雀ってこういうゲームだったんだみたいなまた違った目で見えた。それ自体どうこうじゃなくて、単に麻雀というゲームについての理解。要らない牌を消していく、消す、消す。実際の麻雀だと手牌をソートする以前に第一捨て牌を出すのが当たり前のように、まあほんと捨てるゲームなんだなーみたいな。

先日ビルのゲームをIさんと話してて、ごほうびとしてテナントがガスガスと入っていく気持ち良さを説明したんだけど、「でもテトリスとかああいうの、消えるから気持ちいいんじゃないかなー」みたいなことを言われてそうかー消すのか、とか思ったりした。

実際にモノが消える構造と、そして消去法。ピクロスは消去法のゲームだ。あれは作業としてなんだか頭に気持ちいい。そしてその先に背理法がある。いくつかの仮定を立てて、解いて行く。そして今回思ったのは、麻雀における消去作業の比率は意外と高いということ。麻雀も基本は消去で、その先に仮定があるんじゃないか。

あまりに何かを仮定しすぎると、結局どの手にもたどり着けないと言うか。サンショクとイーペーコーのどっちも狙ってどっちも失敗するとか。そのへんわりと、なるようにしかならない。消去の果てに解答が浮かび上がるピクロス的なものだと捉えると、逆に仮定が上手くいきやすい。思考キャパシティの問題か。まあしょっちゅう麻雀やってる人だとぜんぜん違うっていうか、そのへん踏まえた上でのもっと先なんだろうけど。

とにかく、消したり修正したりすることは、新規に組み立てたり仮定することよりも遥かにラクだ。ゲーム的なメジャーさってそういうところかもなみたいな。仏像は創り出すんじゃなくてもともと材木の中に埋まっていて、それを彫っていくことで取り出してあげる、みたいなスタンス?

  • 「消したり修正したりすることは、新規に組み立てたり仮定することよりも遥かにラクだ。」