『えいご漬け』プレイ雑感。アナログのスナップ、大学的モチベーション、ゲーム対話レイヤーモデル
- 聞き取って、書く。NDSの英語学習ソフト。
- Nさんが来てたのでちょっと借りた。
- ちょっとのつもりが2時間やってた。
- ゲームってすごいな。やっぱり。
- いや、ゲームじゃないんだけど。
- トレーニングやドリルに対しては「これ続けたらどうなるかなあ」と初回だけ限界までやってみることで、ヴァーチャルに継続使用感を引き出そうとしてしまうので、たぶんそういうアレだろう。「今やったのが10日分で、だいたいこのぐらい高まったから。1日あたりだとこうで、100日あたりでは…」という感じ。実際はあんまり継続性とか考えたことが無くて、継続使用することを考えてないから1回で把握しようとするのか。
- というのはどうでもいいや。とにかくそのような個人的なモチベーションがあったということを書いておきたかった。
- DSを机に置かず、手に持って支えながら2時間書き続けてたから、終わってみたときに左腕がものすごく凝り固まっていてびっくりした。痛い。こういうのに気づかないから、ゲームやってて死ぬのもおかしくないと思う。
- サラサラ、カチッ。サラサラ、カチッ。というプレイ感。
- 識字判定と、英文正答判定が一緒という妙味。
- それはどういうことかというと、、、
- タッチペンで書いた線を読み取るから、まずは識字判定が行われる。僕が「A」と意図して書いた線を、コンピューターは「A」と認識する。オッケー。じゃあ次は、それがそこの文章に入力すべきアルファベットなのかどうか? ざんねん「A」じゃなかった、「C」だった。正解じゃない。じゃあどうなる。識字はオッケーでも内容がオッケーじゃなければ、全くオッケーとしない。入力をかき消してしまう。
- と、いうのがなんだか心地良い。いやべつにここが気持ちいいわけじゃないのかな。逆か。
- つまり入力が通るときは、識字も内容もオッケーなときにはじめて通る。これが気持ちいい。んだろうか。
- なんでだろう?
- 「入力が通って嬉しい」も「内容が通って嬉しい」も、それらが独立して一つずつだと弱いのかな。あまりに当たり前すぎて逆に嬉しくない。
- で、2つ重なったときに初めて通る。この手続き感が、ひとつ敷居が高くなってるところが、なんか偶然なのかどうか上手くいってるような感じがした。
- ああそうかこれ、「スナップ」されるということか。
- 識字って選択肢が多いから、「N」と「u」とか誤判定されたり確定に手間がかかったりして意図した入力に至るまでには現状ストレスがかなり多いんだけど、このドリルのような場合には先に期待されるべき唯一の解答があるから「解答に近いかどうか」で判別して入力を受け付けるという仕組みがストレスを発生させなくて気持ちいいのか。
- たとえば「N」を解答として期待する入力において、「N」と書いても「u」と書いてもオッケーになる。逆に「u」を解答に期待するところで「N」と書いても「u」と書いても、識字は「u」にスナップされる。
- スナップとは、多様な解答を受け付けないということか。
- えいご漬けの場合、文章だから同じ文字数でもきっと別の単語を使った表現もありそうで、そのへん様々な表現が考えられる人にとってはスナップが障害になるけど、僕のような英語入門者は表現の幅が少ないからガシガシとスナップしてくれて構わないわけだ。50%程度の入力でも引き上げて100%にしてくれる。これが200%入力できる人だとスナップして減らされてストレスになるのか。
- 『もじぴったん』とかもそういうことかな。辞書に載ってない言葉を知ってるとストレス、辞書を知らないと引き上げられる。
- これは期待されるべき入力が決まっているドリルならでは、か。それがこうしたアナログ入力の場においては、他の自由入力と比べて相対的に「意図したとおり入力できる」「すごく分かってるね!」というインタラクション感になるのか。まあ先行読み込みだもんなあ。
- えいご漬けの場合は特にそれが顕著、というか少しゆるいぐらいで、たまに意図せずとも正解になったりする。「have」と入力しようとしてhと書いたら、実際の解答は「take」でtとして識字されたりとか。
- スナップということで増井俊之氏の記事をクリップしておこう。
- 書いてるときはペンの軌跡に応じてサラサラと摩擦音。で入力内容が通って、書いた字がタイプされた字に変換されるときは、軽くカチッと音が出る。変換確定音。これが正解の合図、かつさりげないご褒美。
- 変換されるというのが気持ちいいのかな。スナップ感。
- 他のモードで、この変換音がゲームっぽく「ピコン♪」と味付けされているところがあって、それはどうも楽しくなかった。嬉しくなかった。
- ひとつひとつの文字入力でいちいち正解おめでとう!的な合図が萎えるのかなあ。
- 萎えるとか言っちゃうと、そういう演出に慣れて飽きちゃってる熟練プレーヤー特有の見下した感想かもしれないけど、ライトゲーマーでもあんまり合わないんじゃないかなあとも思う。
- ご褒美としてのフィードバックが大きすぎるのは良くないということか。
- モチベーション自体はプレイヤーにあるんだよなあ。ってのがすごい。
- だって英語覚えたい人がやるわけだから。Nさんも外国行くからこのソフトを持っていたわけだから。僕もいくらか英語を必要としているという気持ちがあったし。
- まあゲームとして見たらそういうデザインがすごい、というわけでゲームじゃないんだから驚くことでもないのか。
- でもそういうデザインのゲームはなんだか強そうだ。強いって何だ? なんだろな。
- あらかじめプレイヤーが目標を持っている。自立している。大人だ大人。
- 一般的なゲームが義務教育であるとした場合の、大学みたいな位置づけ。じゃなくて、大学院。でもなくて、社会人が大学に入るような感じか。
- 強いというのはプレイヤーか。大学としてそびえるようなデザインのゲームには、強いプレイヤーが集うのか。そうか?
- デザイナーの役割も違うだろうな。デザイナーが設計した「ルール」というのは、プレイヤーがその通りに遊べば満足が得られる保証のある方法の一つであって、それを踏み外さない、遵守することを目的とするのは多分に義務教育的だろう。いや別にネガティブな意味じゃないけど。そういうプレイヤーとして必要な詰め込み教育を経て、応用ができるようになって、初めて自分で目的を持っていよいよ楽しくなってくる、のか?
- ひとつのゲームの中で教育→応用が当たり前だけど、さまざまなゲームの教育がそれなりに共通化してきたのではないかというところでの、応用オンリーなゲーム? 大学的な役割のゲーム。
- ってなんだろな。でもそういうのって結局のところウィル・ライトあたりの話に尽きちゃうんだろうか。
- だからといってTRPGに戻ったり、『ひぐらし』あたりをゲームとして礼賛する気にはなれないなあ。なんだろな。脱コンピューター・ゲームへと向かう姿勢が、退行として見えちゃうのかな。もっとコンピューター・ゲームの上で戦いたいというか。
- あとはプレイヤー全般的に義務教育もういいよね、っていうか。FF12に対して「『初めてのおつかい』はもうできないよ」的な感想表現をどこかで読んでそうだよなあって思ったのとか。
- ライトゲーマーだからゲームの知識ゼロ、ということも無いだろうなと思っているのは、ゲームに触れずともその他新しいメディア(まあケータイとか)に囲まれているから世代的なリテラシーの底上げ感はあるんじゃないかなあとか。
- 『ゼルダ』的なお約束が非常にメジャーである一方、もはや今そこにあるノスタルジーという錯覚も起きつつあるような感触? 絶対に、正しい、と言われていたデザインが変わったりもするような意識。
- モチベーションにすらならない低位でのやりとり。
- (高次だから優れている、低次だから劣っているという意味ではない)
- プレイヤーとゲームでの対話で一番高次なのは、ヴァーチャルかな。ヴァーチャルセックスか。まあストーリー、経験、物語を作り上げるとかって高次な部分であって、それはゲームインターフェースから離れてプレイヤーに内在する営みだと思う。
- で、一番低位なところ。低いレイヤー、プレイヤーとゲームが直接触れ合うインターフェース。えいご漬けは、その低いレイヤーの強さなのかなあって思った。
- レイヤーの話。
異機種間のデータ通信を実現するためのネットワーク構造の設計方針
- 異機種というのを、「プレイヤーとデザイナー(ゲーム)」とした場合の、その通信・対話を実現するための概念がこういうモデルで説明できないかなあって思ってる。
- プレイヤーがアプリケーション層で操作するわけじゃなくて、プレイヤーやデザイナー(ゲーム)自身にやりとりをする層が築かれるという話。になるのかな。
- プレイヤーの高次層が物語主導のモチベーションでゲームと対話し、低次層ではデバイス、コントローラーでの手触り的な対話。
- や、プレイヤー→ゲームへの一方的な働きかけだから、こういうモデルじゃおかしいのか? ゲームとゲームも対話できないとアレか??