プレイヤーが対峙するもの

ひとりあそびプレイヤー。非会話型プレイ。

実は、ぼくはまったくゲームに嵌まらなかった種族であった。たしかに「スペース・インベーダー」や「ゼビウス」には時間を費やしたことはあるが、それでも一人でやったことはなかった。
 にもかかわらず、ぼくはファミコンやプレステやパソコンゲームに嵌まる種族が大好きなのである。どうしてそういう連中が好きなのか、応援したいのか、理由をちょっと考えてみた。そしてこういうことに思い当たった。

  • ひとつ、テレビゲームに最初に食いついた連中は、かつてロックやサイバーパンクやイルカの生態に最初に飛びついた連中と同じ感性をもっているように思えた。
  • ひとつ、一人用マシンに齧りつく姿は自動車族よりオートバイ族に似ているのがいい。
  • ひとつ、都市や価値観や人生の変貌を恐れなくなるのではないかという期待をもって見ていた。
  • ひとつ、なにより加速する自己と対象の関係を愛するのはいいに決まっている。
  • ひとつ、自分の時の成長と同じテンポで進化するシステムにくっついていくのは、無駄も多いがそこから学ぶこともきっと多いにちがいない。いずれ、そういうことを気づくはずである。

 こんなところだろうか。

すごい。そういう連中を応援したい理由がこんなに出た。
でも本読み的な対話感ということで捉えると、ああ当然だよなって感じもする。
記述され死んだテキストとの対話。
僕がゲームにおいて、ナマのコミュニケーション推進にあんまりポジティブな気持ちを抱かないのはこういう対話性かなあ。

対話の姿勢

書き手と読み手の興味の範疇とタイミングの一致するケースはあまり多くなく、むしろよい文章とは、読み手がそれまで持っていなかった興味を喚起するものである。そして読み手がある分野について文章を読んで興味を持ったとして、書き手はその時点で、その部分への興味を修了している。文章を書くことそれ自体が、書き手がその話題のその部分について、興味を消費する行為であるからだ。その話のそこのところは、文章さんともうじっくり話したよ。(消費時間差)
 生身の読み手から有意ななんらかのレスポンスを期待するのは門違いであり、第一に期待すべき相手は、眼前の文章さん自身である。文章さんは話しでのある相手だ、もちろん。いろいろなことを一緒に考えて、幾度となく、非常に鋭い指摘をよこしてくれる。生身の人間と喋りたい時は生身の人間と、文章さん抜きで喋るという手があり、たいがいそのほうがいい。

 この、ホストとコメンテイターとの消費時間差は、会話との大きな違いの一つである。

 場合によってその基準が満たせないこともあるだろうからその時は手を出さず、また稀には相当いいネタが即座に持ち出せることもありその時は躍り出て長文レスするが良い。だがそこにさらに良いネタが即返されることは、稀のべき乗なので期待できないと思わなければならない。

 違う言い方でいうと、多くの場合、ある文章に対して合いの手でない文章を書こうとしたら、その文章とある程度、基点や方向の違う、そして長さはそれに匹敵するベクトルで文章を作らなくてはならない。つまり、ある程度離れなければならない。離れると口寂しい。全体で難易度が高くなかなか上手くいかない。

実際、atomosさんと出会って算出式の大枠を教えてもらった時点(1999年8月)では、すでにatomosさんの興味は他に移っていたものなあ。
 そしてマナコ・アンドウさんからすばらしい調査結果をもらった時(2001年3月)には、僕の興味力が尽きていた。
 世の中うまくいかないもんだ。

興味主導なら記述された文章さんと話すべきだし、文章さんは納得行くまでいくらでも付き合ってくれる。そこにコミュニケーションを期待するなら、生身のほうが効率がいい。というか、そこに期待するのはお門違いという感じ。

他者を参照する

05/22
 あるものをなぜ好きか、を語るのは難しいけど、なぜ嫌いか、というのもたぶんそれ以上に難しいなあ、と思う。
  すごく個人的な気分でものを言ってしまうけど「ゲーム批評」が嫌いだ、という人のけっこうな割合が「近親憎悪」みたいなものなんじゃないかな、と思ったり。
  自分がやりたかったことを、自分がやらない方法でやってる、とか。
  自分がやりたかった方法を、自分が望まない対象に適用している、とか。
  近いものがあるからこその嫌悪、みたいなものじゃないかな。
 すごく乱暴な言い方だから、怒られるかもなあ、これは。でも「自分ならこうするし、現にこうしてる」というものがある人は、かの雑誌をむやみに嫌ってはいないように思えるのね。
 すごく好きなものを語るのも、すごく嫌いなものを語るのも、それなりに距離を置いて語る方法を自分で持ってないと…なんで自分がそれをすごく好き/嫌いなのかを言う足掛かりを持ってないと…評になりえない。少なくとも人に伝わらない。
 自分にとって自明なことでも、他人にとってそうでなければ、それは自分の世界だけのこと。めいめいがそんな自分の世界だけを唯一の基準として、他者を参照したり自分を伝えようとしたりしない、って世界は、なんだか生きにくい気がする。

自分の基準を築くこと、他人の基準も受け入れること。

ゲームの作法。プレイヤーvsデザイナー。会話的プレイ。

 私はエースを育てようと思います。
エースが出れば、このゲームはそのエースを真似ることで爆発的に人気が出始めると思います。
 芝村系ゲームの華はエースプレイヤーと共にあります。
ゲーム=道具の価値は、そんなものです。
 道具が格好いいんじゃない。道具を使う人間が格好良く、それに近づくために人は道具を手に取るんです。それが正しい商売だ。
 道具の誉れはエースの手で使われて性能の極限までぶんまわし、様々なチャレンジにお付き合いすること、道具の作り手の幸せは、そんな道具を作ることです。

ゲームコンテンツの価値はプレイヤーにあること。プレイの創造であること。

この頃から掲示板とは別の場所で、GPM23とそれに付随して公開されていく設定の数々に拒絶反応を示す人たちが続出しました。いわゆる「萎えた」人たちです。

しかしGPM23では、その件について特に問題にされることもなく、ただひたすら大勢の熱意をもって謎に相対していました。
矢上氏も、謎に挑むプレイヤーに対し「全開発スタッフが保証する客の規格外。掛け値なしに本物の遊撃手(No.3467)」と言って褒めそやし、時には「エース」の称号をプレイヤーに与えることもありました。

素晴らしいプレイヤーというのは、他の人と同じ手札でも考えの及ばないような手を出し、しかもそれが理に適っている、そんな人ではないかと、自分は考えています。どこか、坂上先生が絢爛舞踏について語っているのにも似ているような気がしますが。
ともかくそういう意味で、GPM23においてマスターを越えたプレイヤーが一人だけいました。
その人の投稿した考察に対し、矢上マスターが返したレスの最後にこう記してありました。
「なんかはじめて僕より上の答えを見たような気が…(No.4248)」
しかし、この件はそれで終わりました。そこから先へ進むことはなかったのです。

これがGPM23の限界だったのだと思います。
謎を解くという前提がある故に、設定を全て決めてあるが故に、マスターが想定していた枠を越えると、対応できなくなってしまうのです。応じてしまうと、ゲームそのものが崩壊してしまうから。

「Q&A世界の謎」掲示板で行われていることは、それに参加しなかった人の何割かに嫌悪感を与えました。先に語った「萎えた」人たちのことです。

それは彼らにとって、公にされた設定の数々が、とても出来がよいと思えないと感じてしまったからです。そのような設定が開発者自らの口からどんどん明かされていくわけですから、どうしても「ガンパレに泥を塗る行為」だと見てしまいます。
加えて、「謎を解くのに忙しくてガンパレをプレイする時間がない」と本末転倒気味なことを言うプレイヤーの存在も、忌避の対象になりました。ガンパレを、もはやゲームではなく素材としてしか見ていない人たちだと感じられたからです。

GPMが行っていたメタゲーム。
ちょっとネガティブなところばかり抜き出してしまった。
まあ、この手のプレイは構造的に絶賛されるのが常だから(プレイヤーが信頼して絶賛することで成り立つプレイ?)、表出しにくい意見を拾っておきたいなと思ってクリップ。

ゲームデザイナーとプレイヤーが戦うというのが、ゲームでの正しい作法です。
私は作法に従いました。今度はね。


前の時、私は非力だった。だからだまし討ちしました。

いろいろ語られるけど、結局のところ、この「だまし討ち」が良かったのかなと今では思っている。

正しい作法、というのは確かにそうなんだろなあ。

けど作法と言うくらい慣例化しているこの概念はきっとコンピューターゲーム以前の正しさを求めていて、コンピューターゲームというのが記述されたもの(会話的変更ができない、再コンパイルが必要)である以上、その作法を直接求めるのはしんどいなって気がする。しんどいからデザインすべき課題かもしれないけど。

だからだまし討ちこそがひとつの作法になっているのかもなあ。おそらく会話型においては、マナー外れで除外されていた概念。マナーというのは、参加コミュニティの利益を減らさない約束事かな。リソースが限られている。

だまし討ち

なるほど、これは確かにやられた。演出効果が段違いに強力だわ。いろいろ言われる理由も分かる。

まずソフトウエアとしての品質が十分に高い。ゲームシステムはまずまず、高評価にはならないが減点にもならない程度。加えて、キャラクタと演出。いきなり入力が効かなくなる、インタラクティブ性を逆手に取った演出が上手い。ゲームバランスは厳しめだが、それ故に1サイクルが格段に短く、テンポ良くストーリーが進行する。とてもキレイに纏まっていると思う。

エロゲ然としただまし討ち感、裏設定。そんなことは百も承知で消費してしまった感があるけれど、「インタラクティブ性を逆手に取った演出」というのは強い。