Bartleby the Gameplayer

このページのヘッダになんとなく思いついてでっちあげで書き記しておいたけど、バートルビー的なゲームプレイのイメージ感。
「Bartleby the Gameplayer - ゲームプレイヤーバートルビー
元ネタはHerman Melvilleの『Bartleby the Scrivener - 代書人バートルビー


現代ゲームプレイバートルビーのような解釈がしっくりくるんじゃないかなあっていうなんとなくな印象が先にあって言葉を置いてみていたけれど、じゃあその理由ってなんだろなって今になって後付けで積み立ててみようと思う。

引用改変で語るBartleby the Gameplayer論

以下のテキストは

を引用して改変したものです。(引用と言うには長すぎるので引用元に申し訳ない)

二種類のゲームプレイヤー
  • "Bartleby the Gameplayer"の中にはプレイヤーも二種類認めることができます。まず一方には、クリアのできぬBartlebyのフィードバックに悩まされながらも、何とかして彼を攻略しよう、クリアを見出だそうとして試行錯誤を繰り返す主人公がいます。もう一方には、Bartlebyを気になるゲームだとは思うものの、主人公のように彼にとことんつきあおうとはせず、深く考えずに済ます他の消費者たちがいます。この相違はBartlebyというゲームを避けずに徹底的に攻略しようとするプレイヤーと、通り一遍の浅いプレイで満足してしまうプレイヤーの相違と言ってもよいと思います。
  • 主人公はBartlebyの奇妙なフィードバックを説明することができないのですが、Ginger NutのようにBartlebyを単なるクソゲーと片付けることがどうしてもできません。Bartlebyのフィードバックには何かわけがあると好意的に考えてしまう、言い換えればBartlebyの謎には答えがあるはずだと考えてしまうのです。
  • そしてその答えが見つからないのは、そもそも答えなどないのであって、Bartlebyは表も裏もないクソゲーであり、謎など秘めてはいないからなのだ、と考えるかわりに、謎が解けないのは自分のゲームスキルが至らないからだと考えるのです。こうして主人公は自分の方がオールドゲーマーでありながら、Bartlebyの権威に支配されていて、それから逃れられなくなるのです。
  • 実際Bartlebyは"I would prefer not to quit you." と主人公に言います。Hillis Millerも言っているように、Bartlebyは「私をプレイしろ」と権威をもって主人公に迫ります。しかし主人公以外の登場人物たちはBartlebyの権威の支配下にはありません。
  • ゲームは保存され、続編を出され、様々な攻略にさらされることによってプレイするに値するものとしての権威を与えられます。ひとたび権威を与えられると、言い換えればファミ通のお墨付きがつき殿堂入りすると、ゲームのそれまで問題にされなかったようなところまでが探究するに値する謎とされるようになります。
  • 主人公はBartlebyのことがなぜか気になって、こだわっていろいろ考えているうちにBartlebyの権威のとりことなってしまい、ゲーオタとして、自分の理解を超えた謎の答えの存在を信じて、攻略に攻略を重ねていくのです。ところが他の登場人物たちは主人公とは別の世界の住人、いわばいままでまったく遊んでおられなかった方々(ノンユーザー)であり、Bartlebyの権威など認めていないのですから、謎も見出ださないし、こだわりなしにカジュアルプレイで済ますのです。われわれ"Bartleby the Gameplayer"のプレイヤーはもちろん主人公のようにゲーオタであります。主人公はわれわれプレイヤーの鏡なのです。
dead game - 攻略の用をなさぬゲーム
  • Bartlebyが以前勤めていたとの噂があるDead Game Officeは、dead games、つまり攻略不能ゲームを処理するところです。つまり、主人公にとってBartlebyはどういうわけか自分に突きつけられた攻略困難なゲーム、攻略の用をなさぬゲーム、としてのdead gameであり、同じ意味でプレイヤーにとってもBartleby、さらには"Bartleby the Gameplayer"というゲームはdead gameなのです。そして、deadという形容詞は先ほど紹介した、ゲームがゲームデザイナーの死体であるとする考え方につながります。つまり、dead gamesはプログラムの上に記述された、ゲームデザイナー不在の死んだコードの羅列としてのゲームであり、同時にゲーム性を持ったBartlebyその人、さらには"Bartleby the Gameplayer"というゲームのことなのです。
  • Bartlebyというdead gameを攻略しようとする主人公の試みはことごとく失敗します。プレイヤーがBartleby、および"Bartleby the Gameplayer"というゲームをプレイして確実な攻略に到達しようとする試みもおそらく不首尾に終わるでしょう。
  • ゲームデザイナー、ゲーム、プレイヤーの関係によれば、作り終えたゲームデザイナーはゲームの中に冷たくなって閉じ込められますが、完全に死んでしまっているわけではなく、プレイヤーにプレイされることによって再び生命を与えられる可能性を持っているのです。つまりゲームデザイナーおよびゲームは生と死の両面を持っているのです。
  • さて、Hillis Millerは「"Bartleby the Gameplayer" は無限に攻略を誘発する力を秘めているが、どの攻略も適切なものであるとは言い難いように思われる」と述べていますが、この悲観的な言い方の力点を変えて楽観的にこう言ったらどうでしょうか。「"Bartleby the Gameplayer"の適切な攻略に至ることはできないようだが、このゲームは無限の攻略を呼ぶ力を秘めている」と。ゲームを様々に攻略していくことのできる喜び、この喜びを、先ほどの石の中の草のimageの持つ明るさにつなげて考えたいと思います。
  • ここでもKermodeの議論を引用するのが有効です。Kermodeによればゲーオタはゲームをライトゲーマーより高い次元でプレイすることができ、隠された意味の存在を知ることができるという喜びを味わうことができる反面、ゲームが不確定性に満ちたものであることを知ってしまい、確実な真理に到達できないために落胆するのです。攻略者の境遇は喜びと落胆がないまぜになったambivalentなものなのです。
ゲームのエンディングとプレイする行為の終わり。「お前がエンディングを見せないなら、わ、わ、私の方がエンディング!」
  • 最後に問題にしたいのは、ゲームのエンディングとプレイする行為の終わりということです。Bartlebyは主人公のあらゆる仮定、入力に対して"I would prefer not to"と否定のフィードバックを返します。私の考えではBartlebyはあらゆる攻略をはねつけるゲームです。
  • 批評家の中にはBartlebyに対する主人公の攻略のまずさを指摘する人がいるのですが、ではどのように攻略すればよかったというのでしょう。確かに主人公は完全無欠なゲーマーではありません。しかし、どんなにすばらしいゲーマーがBartlebyに取り組んでも、この男を攻略することもクリアすることもできないとしたらどうでしょう。Bartlebyの本領は一切の攻略を拒むところにあるのではないでしょうか。もしこう考えるならば、Bartlebyをプレイするという行為がエンディングに到達して終わることは望めません。
  • 同様にわれわれプレイヤーにとってもBartlebyは、そして"Bartleby the Gameplayer"は、自らのゴールが確定されることを拒否し続けるゲームであると私は主張します。プレイヤーが確定的な攻略に到達したつもりになることは、主人公以外の登場人物たちの態度とそれ程変わらないことになるのではないでしょうか。しかしこのように主張すること自体、ゲームのゴールを確定しようとすることですから、この主張の確定性も否定されてしまいます。このパラドックスにどう対処することができるのでしょうか。
  • 主人公は何度もBartleby攻略を試みながら、常に最終的なクリアを先送りしますが、遂に不可解なBartlebyにとりつかれるのに耐えきれなくなり、「お前がエンディングを見せないなら、わ、わ、私の方がエンディング!」と奇妙な結論を出して、Bartlebyのもとから逃げ出しました。
  • 主人公の逃避行は暇つぶしからエンディングへの逃走なのです。しかし結局主人公は逃げおおせてはいない。Bartlebyは死んでからも主人公にとりついて、主人公にこのゲームをリプレイさせたわけですから。そして主人公はゲームをリプレイすることによって謎をプレイヤーにも振り向けたのです。
ゲームの権威によって迫られる、プレイヤーのプレイと逃走
  • われわれプレイヤーも主人公と似た道をたどるのではないでしょうか。「私をプレイしろ」と不思議な権威をもってプレイヤーに迫り、解くことのできない謎を突きつけてくるゲームに対して、プレイヤーはエンディングを求めながらもスタッフロールに祝福された終わりを持たないプレイの行為を続けるか、あるいは、プレイするのをやめる、言い換えればプレイすることから逃げるかのどちらかを選ばざるを得ないように思われます。
  • 逃走というモティーフは主人公にとってもプレイヤーにとっても重要なものとなります。主人公がBartlebyというプレイできないゲームから逃げようとするように、プレイヤーも目の前のゲームから逃げようとする、しかしどちらもゲームの権威の支配下にある限りは完全に逃げおおせることができず、再びプレイの行為に立ち戻るかもしれない。仮にもしプレイヤーがゲームの権威から自由になれば、ゲームはプレイされなくなる。言い換えればゲームはdead gameとなり、Tombs(墓場)に送られる。そこは、プレイされなくなったゲーム、話題にされなくなったゲームデザイナーの遺体が眠る図書館です。
  • しかし、もし、Bartlebyと対峙する主人公の喜びと落胆の入り交じったambivalentな動揺が、プレイヤーに伝染するならば、そしてさらに一人のプレイヤーの動揺が他のプレイヤーに伝染するならば、そしてこうしてBartleby、および"Bartleby the Gameplayer"というゲームが人間をプレイの行為に走らせ、かつプレイの行為から逃走させ続けるならば、このゲームはスフィンクスのように生き続けていると言ってよいでしょう。
  • 人間の生の在り様もこのようなものではないでしょうか。何かから逃げながらも決して逃げおおせることができない。逃げながらもまたその何かを追いかける。到達できないかもしれないもの、いや、そもそも存在しないかもしれないものを目指す人間という生き物。
  • かくしてゲームの最終行が新たな意味を持って迫ってきます。
  • Bartlebyを攻略する者としての主人公とプレイヤーの体験する動揺とためらいは人間の在り方(humanity)を表わしており、また、ゲーム研究を含む人文科学(humanities) にたずさわる者の境遇、もっと限定して言えば"Bartleby Industry"にたずさわる者の境遇をもこの叫びは表わしているのです。"Bartleby the Gameplayer"というゲームをプレイしてわれわれ(皆さんの同意を得られるならば)が魅力を感じながらも何とも言えぬ不安や居心地の悪さを感じるのは、このゲームがわれわれの境遇を写しだす鏡であることを暗に感じ取っているからではないでしょうか。

改変ポイント

  • Scrivener → Gameplayer
  • テクスト、手紙 → ゲーム
  • 語り手 → 主人公
  • 読者 → プレイヤー
  • 解釈、解読、理解 → 攻略
  • 作者 → ゲームデザイナー
  • 読む → プレイする
  • 言動 → フィードバック
  • 読解力 → ゲームスキル
  • dead letter → dead game
  • 配達不能郵便 → 攻略不能ゲーム
  • spiritual reader → ゲーオタ
  • carnal reader → ライトゲーマー
  • carnal reading → カジュアルプレイ
  • outsider → いままでまったく遊んでおられなかった方々(ノンユーザー)
  • 物語の終わり → ゲームのエンディング
  • 意味 → ゴール
  • 不確定性 → ひまつぶし
  • 確定性 → エンディング
  • insiderの制度 → ファミ通
  • canonizeされると → 殿堂入りすると

改変意図の説明

Scrivener

Bartleby the Scrivener(代書人バートルビー)という記述する立場から考えれば、game playerと言うよりはgame designer、game masterと言ったほうが正確かもしれないなと改めて思い直した。んー…。でも直観的にはplayerという捉え方、前提からバートルビー的なゲームプレイ解釈を始めているので、そこでplayerという定義自体を考えたいのかな。自分の中では、game playerとgame designerは対立するものではなくて、かなり掛け合わさるものだという定義はつけているので、そういう立場的にはplayerで問題無いかなあ。

spiritual reader、carnal reader

これをゲーオタ、ライトゲーマーと当ててしまってはいるけれど、この言葉は非常に微妙。通りの良さを優先しただけであって、ゲーオタやライトゲーマーという言葉での分類自体が持つ意味についてはこの話に限らず考え中。

対比的に考えれば、参加者と消費者かなあ。ゲームを純粋エンターテインメントと捉えるかどうかの違い。これなら消費的ゲーオタを消費者として説明ができるのがいいところ。ん、いや、参加ということ自体が消費行為を含んでるから危ういな。ダメな物言いか。

outsider、insider、canonize

このへんはセンセーショナルな言葉を連発してしまっているなあという自覚はあるし、本気でそういう物言いがどうとか考えているわけではもちろん無くて、まあこれも通りの良さで安直に当てただけ。この言葉のようなカテゴライズの仕方によって僕自身がどういう立ち位置でどう捉えられたいかという意図は無く、この文脈にはあんまり言及されたくないところ。

不確定性、確定性

これをそれぞれ「ひまつぶし」と「エンディング」に当ててみた。不確定性については、ゲームプレイの持続ということを言いたかったわけだけど、ゲーム的に言えばそれは暇つぶしでいいんじゃないのかなあ、というか、むしろ適切かなあと思った。んー。これも暇つぶしという意味自体がアレか。

確定性は、んー。まあゲームにおいて考えてみれば、バッド・グッドに関わらずエンディングの提示か、プレイヤーによるゲームタイトルの把握・卒業・放棄、かなあ。で、解釈できずにバートルビーから逃げ出したとあるのを放棄と捉え、逃げおおせてはいないということから、バートルビーが持たない確定性と言うのはエンディングということかな。

配達不能郵便

これは、攻略不能ゲームと当てちゃったけど、あれ、いいのかな、どうだろう。

まとめ

Bartleby論に照らし合わせてみたら予想以上に僕が考えているゲームプレイ感にマッチするところがあった。「私をプレイしろ」というゲームの不思議な権威、そしてそこからの逃走はかなり重要なテーマに思える。プレイヤーは突きつけられ、伝播もしているわけだ。んー。それを打破するのかな、折り合うのかな。どうだろう。

まあそれ以前にちゃんとBartlebyを読めてないんだけど。どっちかっていうと解釈するためにゲームに置き換えたかったのかな。


あとやっぱりゲームってのはゲームプレイすることで言えばまさに本読みに近いんだろうなあ。よくゲームと映画との対比が多いけど、僕はゲームをあんまり純粋エンターテインメントとして捉えて無いんだよな。…と書くと、いや映画との付き合いだってエンターテインメントじゃないぜって物言いもありそうだけど。

まあそのへんのエンターテインされる、されないという意識がspiritual reader、carnal readerの区分けかなあ。