スタジオジブリ『ゲド戦記』 ウサギの存在について

観終えてから少し経ってまた感じたことを書く。

クモの手下、ウサギについて。

▼以下、内容に触れるので改行。







原作との照らし合わせで一番引っかかったのがウサギの存在。これだけはなんか純粋にジブリキャラという感じだった。もともと原作にもあまり描写が無かったわけだけど。

ウサギはいつものクロトワタイプのキャラで、映画としてアクションシーンの多くを掻き立てている。ウサギはゲドの居る世界に揺さぶりを与えながら、同時に、ジブリとしてル=グウィンの話に切り込んでいるというか。

ただ、これがなんか、しっくりこなかったのかな。

アニメーション的な動きとしては魅力あるけど、お話としてはこじんまりしてしまったような感じがする。ウサギはクモの手下として、主人公に、観客に、直接的な悪意を見せ付ける。そしてその原因がクモ。なんかそうした構図だったので、要素が明らかすぎてチープに見えたような感じ。

ウサギが居なかったら、ということを考える。

物売り女とか、ハジアの売人とか、魔女を嫌悪する村人とか、そういう間接的な細かい悪意の積み重ねはあった(特にハジアの売人が良かった)。ただ、ウサギがあまりに強く掻き回すので、だいぶ薄れてしまった気がする。ウサギ-クモと繋がるラインをあまり見せないほうが、難しいけど、克服すべきものを正確に想起させられたんじゃないかと感じる。まあそれは結局原作寄りが良いという意見だけど。クモにしても、「ゲドへの因縁」という部分が直接的な理由としてクローズアップされてしまって、だからなんか、倒して終わり、クモとウサギという原因を取り除いて終わってしまった感じがした。ホート・タウンという町を描いたわりに、彼らのもたらした解決が、あまり還元されない感じだろうか。

そうまでしてウサギを立たせたわけだけど、クロトワ以上に魅力あふれる内面を見出すのは難しいし(やはり単に原作には無いからということかもしれない)、映画的に便利に扱われているような感じがしてしまった。ウサギの作るアクションシーンはアニメーションとして見応えあるけど、お話として感じ入ることが少なかった。

話として魅せられるところにアクション無く、アクションのあるところに魅せられる話が乏しい、といったところがすっぽ抜けてる印象なんだろうか。

けど実のところ、もう一度観たいとは思えなかった。もう一度これを観るのはたぶんつらいな、と思ってしまった。そのへんがショックだったかな。
もう一度観たくなるってどういうことだろう。悪いシーンがあるから観たくないのか、それとも浸りたいシーンがないから観たくないのか。どっちかっていうと後者なのかなあ。
http://d.hatena.ne.jp/miyaoka/20060729/1154127131#c1154151760

映像的な動きと心情的な動きがビタッとはまるシーンがあまり無かったんじゃないかと今では思う。